三四郎_美禰子の夫選び

美禰子がほかの男のもとに行った理由は何だったのか。
三四郎はどうしたら美禰子と一緒になれたのだろうか。

 

与次郎曰、

「二十前後の同じ年の男女を二人並べてみろ。女のほうが万事上手だあね。
…よく金持ちの娘や何かにそんなのがあるじゃないか、望んで嫁に来て置きながら、亭主を軽蔑しているのが。
美禰子さんはあれよりずっと偉い。
その代わり、夫として尊敬の出来ない人の所へは始から行く気はないんだから、相手になるものはその気でいなくっちゃ不可ない。
そう云う点では君だの僕だのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」(272)

とのこと。

与次郎の説が正しいとすれば、美禰子は三四郎を能力面(男としての振る舞いや経済力など?)で自分の夫になるレベルではないと評価したことになる。
しかし一方で、協会から出てきた美禰子は三四郎に向かって

「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」(281)

三四郎への恋情を吐露する。
(上記は「こころ」(1914)で先生が言った「恋は罪悪」という言葉を連想させる。
この美禰子の言葉の引用元である旧約聖書は、夏目漱石の哲学に長く影響を及ぼしていたのだろう)

尊敬や夫としての働きという夫選びにおける評価を別として、彼らは池のほとりでお互いを目にしたときに恋に落ちていたのだと思う。

お互い、一目ぼれだった。
三四郎には妻選びなんていう思考は一切なく、感情の赴くまま、美しい美禰子との時間を楽しんでいた。
野々宮さんと美禰子の関係や、美禰子の自分への思いについて常に不安があるから、今はもう美禰子と会えるだけでいい。
結果を急ぐ必要はない。
迷子のままで構わないのだ。

20代前半の男には、結婚なんて視界に入っていない。
妻を連れるなんてまだ先のこと、他人事くらいに考えている。

一方美禰子は、三四郎と同い年でも、女として結婚適齢期を迎えている。
親もこのくらいの年で結婚し、友人も次々嫁入りし、自分のところには方々から縁談が来る。
恋愛している場合ではない。
生活していくために、夫として相応しい人の所に行かなければいけない。

そんな状況に、鈍い男は気づかない、気づいても気遣いはしない。

美禰子は迷う。
一時かもしれないこの感情のまま進んでもいいのか、生活していくことを考えて条件で選ぶべきなのか。

彼女は後者を選んだ。

・・・

 

上では美禰子側の事情について妄想した。
次は、三四郎に足りなかったものは何だったのか、どこで間違えたのかについて考えていく。

まず思い当たるのは、三四郎のはっきりしない態度である。

美禰子への好意は周囲に駄々洩れなのに、本人を前にすると身が固まったようになりうまく気持ちを表現できない。
上京の電車の女から言われたのと同じことを、美禰子にも感じさせてしまったのかもしれない。
美禰子は賢く感覚の鋭い女だから、きっと三四郎の意気地のなさや硬さに何かしら思うことがあっただろう。
これらの彼の性質は、当時の感覚として、男としての頼りなさに繋がるのではないかと私は考える。
女が偉くなってきて困ると広田先生がため息をつくような時代でも、やはり家長は男だし、生活を支えるのに十分なお金を稼ぐ仕事ができるのも男。
これから先の生活を考えると、このような「男らしさ」や「頼りがい」は夫選びの中で必須項目になってくるのだろう。

そして、上記に繋がる「ジェントルマン」性。

美禰子は協会に通い、会話の中でキリスト教の寓話を引用したりもする。
西洋の画にも多少の知識はあるようだ。そして英語を習っている。
そんな人物が西洋の書物(教典や小説)などから「ジェントルマン」という概念を身に着けていたとしても不思議ではない。

彼女は男にレディーファースト、ひいては自分ファーストの実行を望んだのかもしれない。

実際に夫として選んだ男は、自分の帰りが遅いからといって車で迎えに来てくれるような人物である。
さらにわざわざ車から降りて、美禰子の隣を歩く見知らぬ男に、朗らかに挨拶をする。
なんともジェントルマンらしい振る舞いだ。

また、彼は自分の妻が絵のモデルとして褒められているのを耳にして、嬉しそうな表情を浮かべる。
自分の妻を誇りに思い、それを態度に出しているところが、美禰子が求める妻としての喜びを満たしているのだろう。

三四朗はどんなに女を想っていても、どこか冷めた態度をとってしまう。
田舎で培った感覚が女に従属することを拒否しているのか、ただ単にシャイな性格のために愛情表現が苦手なのか。
お堅いエリート学生であり九州男児である三四朗と、慈愛溢れる柔らかなジェントルマン像には幾里かの隔たりがある。

もう一点気になるのが、タイミング。

もしもっと早くに気持ちを伝えていれば、三四郎が美禰子を逃すことはなかったのだろうか。
私は否と考える。

美禰子は自分の意志で選び行動することに拘る。
三四郎が手を差し伸べても、彼女は掴まない。
手をおろした時に、ただ彼女の目の前に立っている状態になった時に、
漸く美禰子は判断を下し、彼の腕をつかみ頼るのだ。

男を振り回そうが強引だろうが、自分のことは自分で決めるんだから仕方がない。

では結局どうすればよかったのか。

私は、二人がここで結ばれるエンディングはどうしたってなかっただろうと思う。
二人がどう行動したって、23歳時点での性格や考え方では、お互いが今求めているもの・求めないものが合致しない。
妥協も難しい。
そうなると、与次郎の言葉「もう五六年経たなくっちゃ、その偉さ加減が彼の女の眼に映ってこない」の通り、
二人とももう少し年をとって、大人特有の判断が身に付いたときにはじめて一緒になることができるのかもしれない。

夏目漱石前期三部作」において「三四郎」(1908年初版)に続くとされている「それから」(1909年発表)では今述べたように二人の関係が展開するので、与次郎の言葉は全く出鱈目でも悪戯でもない。

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夏目漱石(2000) 『三四郎』[第二版] 新潮社