三四郎_完成した画の前で

完成した大きな画を前にした与次郎、広田先生、野々宮、三四郎の四人。
野々宮と三四郎は共に美禰子に弄ばれた挙句実物と一緒になることは叶わず、こうして画の女の前に立つ。

三四郎に劣らず、野々宮も実に可哀そうな目に遭っている。

野々宮の敗因は、素直に考えると研究に没頭しすぎたことに当たる。
研究ばかりの彼はきっと自分を女として充分に可愛がってくれない、面倒もあまり見てくれない。
しかもお金に頓着しない性質だから、この人と一緒になれば生活の質が落ちることは明らか。
そういった損得面での懸念もあったのかもしれない。

しかし、世界の野々宮でさえ愚弄せしめる美禰子のことだから、
頭の切れる野々宮にも何か人間的な欠点があり、
そこを持ち前の慧眼で見抜いて彼を落選させた可能性がある。

菊人形を見に行く段で、美禰子が野々宮と広田先生のどちらか、或いは両方を指して

「責任を逃れたがる人だから、丁度好いでしょう」(123)

と漏らす。
どちらに対しての言葉かは文中に明示されていないが、十中八九野々宮に対してだろう。
広田先生は、美禰子を疲弊させるほど彼女からの注意を得ていないからだ。

野々宮さんは菊人形の会場付近で乞食と迷子に誰も手を差し伸べない様子を見て、
この情景を一種の社会現象として諦観しているような態度をとる。
この時の会話から「責任」という言葉が引用されている。
また、人いきれから逃れた三四郎と自分を、菊祭会場で見た「迷子」に例え、

ストレイシープ」(124)

という単語を呟く。
ストレイシープ」とは、「百匹の羊を飼う者はそのうちの一匹が迷子になれば、ほかの羊を置いてでもその一匹を探し求める」というマタイ伝18章12-14節にある寓話からのサイテーション、とのこと(注釈より)。

美禰子は協会通いをしており、彼女の行動指針はキリスト教からの影響を受けているのだろう。
この教えに養成された道徳観も、彼女が野々宮から離れる原因の一つになったのかもしれない。

前回の投稿でも書いたように、美禰子には男にジェントルマンであること、
そして「レディー(自分)ファースト」であることを望んでいるようなところがある。
「自分の女を大切にする」という心を、彼女は野々宮から感じたかったのかもしれない。

場所が悪かろうが何だろうが自分を一番大切にして愛してくれる、
そして自分を妻として持つことに責任を負う気概のある人のもとに行きたいと願った。
心で通じあう、詩人的ロマンスを求めた。

それに対して野々宮は、確固とした事実のみを信頼する物理学者である。
彼にとってすべては物質、研究対象のように扱う。
美しい美禰子を人込みの中に放置して、まるで気にかけない。いなくなったって探したりしない…
そんな無責任な男の態度が美禰子にとっては屈辱であり、野々宮への失望の種になったのだろうと私は考える。

 

三四郎が野々宮を評して、

「世外の功名心の為めに、流俗の嗜慾を遠ざけているかの様に思われる」(161)

と言った。
勉学に対する努力を意図的に継続している感があるということである。
さらに言い換えると、頭が良いファッションをしている、ということになる。
この野々宮のかっこつけが美禰子には気に入らなかったのかもしれない。

本当は綺麗な女の人もかわいい妹も大好きなのに、
それを俗っぽいという理由で遠ざけ、堅物を装っている凡人だと、
美禰子は見抜いていた。
(上の説と小説序盤野々宮が美禰子にリボンを贈るシーンはぶつかってしまうが、
私は今のところそれに対する弁論を持っていない)

彼女は彼を恋愛対象、ひいては結婚相手候補として見ていたからこそ、
彼のかっこつけの鎧を剥がし「流俗の嗜慾」を露わにするために、
彼の前で第二夫候補である三四郎カップごっこをするという荒業に出たのではないか。

それにまんまと引っかかってあからさまに機嫌を悪くする野々宮。
それを面白がる魔女、美禰子。

そんな美禰子の策略も彼のかっこつけ体質を変えるに足らず、
(もしかしたらむしろ拗らせる原因になってしまったかもしれない)、
美禰子に対して感情を表すことはなかったから、彼は選ばれなかったのだろう。

美禰子の結婚披露宴の招待状を破り捨てる行動は世俗的感情から発したものか、
それともただ単に他人に興味がないことを表しているのか。
わざわざ引きちぎって彼女の画の前に捨てるなんて、なんとも感情的で俗っぽい。

 

三四郎と美禰子だけが知る、この画の本当の題名「ストレイシープ」。
若い彼らはまだ、安寧の地には辿り着いていない。

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夏目漱石(2000) 『三四郎』[第二版] 新潮社