きつねのはなし_第二編 考察

「きつねのはなし」、第二編の考察。

ネタバレもりもり。

 

【果実の中の龍】

 

不思議なタイトルだ。

このタイトルは、主人公・先輩・瑞穂さんの手を渡るあの龍の根付のことを指している。「果実の中の龍」の意味についてぱっと連想されるものはなかったのだが、熟考してみると、心地よい甘さの果実の中に空想の生物が生まれ住んでいるという先輩の心理を反映させたものなのだろうか、とか、この作品で一貫して描かれる「雨が降った時の甘い果実のような匂い」という雨天の様子を表した彫刻なのだろうか、とかふわふわとアイデアが浮かんでくる。あくまでもふわふわとしたものなので、どれにも確信はない。もしかしたら意味などないのかもしれない。

 

 

さあ物語へ。

大学の研究会で知り合った先輩が所有する四畳半の「図書室」で、彼の冒険譚のような人生を聴く日々を送っていた主人公だが、先輩の彼女、瑞穂さんの先輩への態度が時々曇ることに気づき、その裏にある真実と対面するというお話。

この作品を読んでいて、私自身読書する人として、こころがじんわり痛むように感じた。
彼は自分を客観的に観察した結果生まれたキャラクターを使って物語を創作し、主人公に語って聞かせる。自分が空想に溺れていること、そしてその原因を自覚していることが、先輩に潜む真実の哀愁を煽る。しかし読書や空想を止めれば万事解決というわけではない。先輩の抱える問題の核は、自己のつまらなさである。現実で何も有益な活動ができない自分が恥ずかしい。だから本を読み、他人のおもしろい経験や知識を取り入れる。そうすると、意識せずとも自分の中の世界は膨らんでいく。その大半は空想・架空・嘘と呼ばれるものでできている。
彼はただおもしろくありたかっただけなのだ。
つまらない日々を送る者が、おもしろい人間になろうとする。
それは人生の創作を意味していた。人からおもしろいと思われたいと、見栄を張り、害のない嘘をつくことで、孤立していく切なさ。先輩への同情が止まない。読書をきっかけに空想世界に飲まれてしまったという先輩の祖父の人物像は、先輩自身の行く末を暗示しているように思える。

先輩が虚栄から脱し、自然体でいてくれることを願った瑞穂さんは、ますます空想を膨らます一方の彼の元から去った。それに対して主人公は、空っぽな自分を虚構で埋め立てる先輩を受け容れ、先輩の物語の続きを聴かせてほしいと言う。

「嘘だからなんだというんだろうな。僕はつまらない、空っぽの男だ。語られた話以外、いったい、僕そのものに何の価値があるんだろう」
「じゃあ嘘をつけばいいじゃないですか」

主人公は、実際に京都で街で見た神秘も、先輩のように部屋に籠り魂の京都散策によって出会った怪異も、どちらも京都の不思議なのだと、先輩の苦悩を肯定する。

この話の不気味なところは、先輩の空想が他編で現実に起こっていることとリンクしていることである。第一編の「芳蓮堂」、第三編の「胴の長いケモノ」、第四編の「龍」が、先輩の空想の中で彼と関わる。まるで先輩には京都の不思議を察知するシックスセンス的能力が備わっているようである。
森見氏の別作品、「宵山万華鏡」の第三編「宵山劇場」も似た構成になっており、現実世界とパラレルに存在する異世界で蠢く奇妙な者たちの姿が、アイデアとして浮かんでくる=異世界とリンクするような女の子が登場する。

 

空想が現実を生んでいるのか、現実が空想に影響を与えているのか。どちらが先かわからないが、空想と現実はお互いに影響し合って、空想が現実を作り、逆もまた然り、のような関係になっているのかもしれない。

先輩の話は全くの出鱈目ではない。彼の話はおもしろかった。