夏目漱石_文章による「美」の創作

夏目漱石の作品の魅力のひとつは、彼の美的センスが発揮されたロマンチシズムだ。

読み終わった後にはいつも「美しかったなあ」という印象が残る漱石作品たち。
焦点が当てられる上品なモチーフたちとその鬼才的な組み合わせは、彼の美的技術の高さをうかがわせる。
今まで漱石作品を好きな理由について具体的に考えてこなかったが、
彼が美術を趣味にしていたことを最近知り、この美への関心が作品を魅力的にし、
現代でも人を惹きつける要因のひとつになっているのだろうと思った。

草枕』はその芸術論を突き詰め、文章に昇華した作品だと言える。
そこまで極端なものでなくても、『三四郎』『こころ』『門』などの作品群は、
にっぽんの美ともいうべき奥ゆかしく繊細で迂遠的なロマンスや風景で彩られている。

西洋文化の美にも親密な彼が生み出す作品ににっぽんの美が満載されていると断言するのには少し違和感があったので、この点について考えてみた。
作中にはもちろん西洋文化的美の要素も入っている。
しかしあくまでも日本国内で扱われている西洋文化であるため、その美もやはり日本的だと感じさせる。
「日本における西洋文化」の描き方は、漱石も意識したところではないかと思う。
西洋の美の華やかさをそのまま自身の作品に持ち込んでいるわけではないと私が考える理由は、以下の二点。
・「I love you」の日本語訳についての逸話が残るほど、漱石は日本人の機微に通じている人だったこと
・『処女作追懐談』にも書いているように、彼は他人のコピーを嫌っていたこと
彼の鋭敏すぎる感覚がキャッチする日本人の国民性のようなものに沿った形に描き、
「日本は西洋文化の真似をしている」のではなく、
「必要なものを生活スタイルに合わせて取り入れている」という風な書き方をしている。
あえて「西洋文化を何でもかんでも真似る」というキャラクターを作っていることもあるが、その場合は少し滑稽さを含んだ、文化的に高貴でない人物に見える。

このような人間や文化を描く時の繊細な気遣いに、私は「漱石の小説らしさ」を感じている。

 

私の中で漱石作品における美の象徴たるものは、『それから』の冒頭と末尾部分だ。

冬の日、門前を駆けていく行く下駄の音を半ば夢の中で聞き、その画を目前に見た。
そして目が覚める。枕元には赤い椿、赤ん坊ん頭ほどもある椿。
それが夕べ首からぼとんと落ちた音を、確かに聞いたという。
そして終末は、「ああ動く。世の中が動く」と口からこぼれ、赤いものが目に付きだす。
赤いポスト、赤い蝙蝠傘、赤い風船。それらが代助の頭の中で渦を巻き回転する。
私はビートルズの音楽が聞こえるような気がしてくる…

上記描写は、映画のシーンのように映像と音が記憶に染みついている。
ただ、小説のプロットを全くと言っていいほど覚えていない。
350ページ近い作品の中盤の記憶が欠落していたり、『それから』の内容と混同したり、
もうこれは『門』を読んだとは言えぬほどの忘却ぶり。
私はちゃんとこの小説について記録を残していただろうか。
自分の記憶力を疑い、ちゃんと書き記しておくことを最近は習慣づけているが、
この作業は決して疎かにしてはならないと改めて思う。
話が逸れたが、『三四郎』(新潮社の第二版)の解説で、漱石が以下のように小説のタイプを分類していたと書いてあるのを読んだ。
1. 筋の推移で人の興味を惹く小説
2. 筋を問題にせず、一つの事物の周囲に躊躇彽徊することによつて人の興味を誘ふ小説
二つ目のほうは俳味・禅味を帯びたものである、とのこと。
つまり、タイプ2の核は、ストーリーではなく人間の心理・思考の動きである。
そこに寂れた美しさが漂っている。
『それから』の話の内容を覚えておらず「唯美しい感じ」が残っているのは、この作品がタイプ2に当たるからなのだろう。

彼の目指した「文章による美の創作」の対象は、ロマンスや風景だけでなく、
女性もそこに含まれていると感じることがある。

『明暗』に登場する女性たちは、彼女らが主人公のような描かれ方をする場面があることもあって、
内情があけっぴろになっている印象を受けた。
そのため心のうちで蠢く意地汚さやプライドが読者に晒され、
顔立ちが整った美人である主人公の妹にさえも美しさは感じない。

一方『三四郎』の美禰子は、彼女側の思考やモノローグが書かれることがない。
彼女の感情を評価できる数少ない材料である言動も、
誰に好意を寄せているんだか、何がしたいんだかはっきりわからないことが多い。
恋の媚薬に大いに惑わされている三四郎から見た美禰子の姿は、
いつもゆらゆらと定まらぬ美しき幻影のようなものだったのだろう。
その恋愛に酔ったような状態にあるときに、特殊なフィルターを介して見る女の神秘的な美しさを、
漱石は文章で創り上げたかったのかもしれない。
その結果生み出されたのが「美禰子」という美人像である、というのが私の見解だ。
現実世界に美禰子のような言動をする女は存在しないはずである。
美禰子に近い雰囲気を持つ言葉数の少ない美女はいるかもしれないが、
男女二人きりで話しているときに「ストレイシープ」なんて呟くアンニュイ乙女はどの時代にもおらんだろう。
いないというより、美禰子を構成する要素をクリアし、かつ、美禰子と同じ社会的評価を受けることは非常に困難である。
天性の力で男を魅惑する女を徹底的に男目線で描いたから、
美禰子は非現実的なまでにロマンチックな女に仕上がったのだと思う。
そしてそれが、漱石が描きたかったものだったのだと私は考える。