桐島、部活やめるってよと、懐古

今回は読書感想文というよりは、懐古味が強いエッセイのようなものになった。

桐島、部活やめるってよ」作者の朝井リョウさんと同世代の私は、この小説を読むといやがうえにも高校時代の記憶が蘇る。高校時代の友人と話しているときよりも鮮明に、未熟ながら人を読み空気を読み過ごしていたあの感覚が、いったいどこに眠っていたんだかうごうごと浮かんできた。

 

この作品にネタバレというものがあるのかわからないが、これ以降は作品の内容に触れていくので未読の方はご注意を。

 

 

 

このタイトルから想像できるのは舞台が高校だということと、部活の話なんだろいうということくらい。読み始める前は、桐島がなんで部活やめるのか、彼がいない部活がどうなるのか、結局桐島は本当に部活やめてもう戻ってこないのかみたいな話だという想定でいたし、大抵の人がこんな感じのストーリーラインがしっかりある青春群像劇だろうと思って読み始めるんだろうけど、全然違った。

実際の内容は、5人(文庫本化にあたって加えられたかすみも入れたら6人)の田舎の進学校に通う高校生たちの心情が、章ごとに主人公を変えながら語られていくというもの。風助の章以外では、桐島はあまり話に関わってこない。

 

この5人の主人公たちの共通点は通っている高校くらいで、それぞれ部活も性格もクラスのグループも、もっと言えば属している階級も違う。

そんなバラバラの彼らが学校生活を語るうえで必ず言及しているのは、「上下」だ。ヒエラルキーの、上下。派手か、地味か。
この階級制度に組み込まれずに高校生活を終えられた平成の高校生はどれだけいたのだろう。自然発生的で、明確・強固なスクールカーストによって、高校生たちは優越感を楽しんだり、学んだりへこんだり毒を持ったりする。自分の立ち位置を自覚させられることで自分の可動域が無意識に測られ、その範囲を広げようと垢抜け欲に駆られてアレコレやってみたりする。これを大人になることだと言えるのかはわからない。こんな洗礼をうけずとも大人にはなれるだろうし、そっちの方がヘルシーなんだろうとも思う。
階級ごとの人間の、周りからの視線と、自分自身を見る視線。これらの描写が本作のトピックのひとつになっている。

 

今観ているアニメ「スキップとローファー」も高校生の物語なので、この二作の強い青春性にあてられて精神が高校時代に退行しそう。さすがに中堅社会人がJKの心を取り戻したら痛いのでなんとかここに留まるよう踏ん張っている。

でも高校生活に心残りのある私はやっぱりあの恋愛の仕方が恋しくなってしまう。直接話すことは少なくても、教室の後ろの方の席から眺める後ろ姿とか、放課後偶然見かけた部活に励む姿、昼休みに友達と話しているときに出るちょっとした仕草とかに目線を持っていかれて、好きだなあと思うあの感じ。自分に対してどうか、だけじゃなくて、自分とは関わりのないところでの過ごし方を見る機会もたくさんあった上でのことだから、尚更感情への確信が強まる。確信と言えるのは青春時代を終えて振り返るだけの安全な立場にいるからなのかもしれない。当事者だった頃は「いいな~」くらいのぼんやりした気持ちのまま毎日ダラダラ過ごしていて、確信に変えようとはしていなかったかも。向こうは私の事を仲間くらいにしか思っていなかっただろうから。友達ですらない、学校行事などの本当に一時的な共通の目標に向かって一緒に頑張る仲間でしかないっていう自信のなさがあったから、これは恋愛感情まではいっていないことにしていた気がする。

今「桐島、部活やめるってよ」を読んで、感情や思考を言語化しようとしていなかった時代の記憶を掘り返して考え直してみると、この自信の無さの中には「上下」の感覚がなくはなかったんだと思う。
私は生まれながらに上層に就けるタイプの人間ではなかったからこそ、メイクやダイエット、制服の着こなしから私服までお洒落に気を付けてきた。部活動は一年も保たずに辞めて、バイトして貯めたお金で原宿に繰り出し、服や化粧品を買う。散々苦労して研究して毎朝時間をかけてようやく当時の私が思う「女子高校生らしさ」を身に付けられていた。苦労しすぎたせいか、高校時代に私の卑屈癖(性格の悪さ)が開花し始めたことに、当時の私は薄々気づいていた。そんな自分に爽やかの権化みたいな、恐らく遺伝子レベルで陽なあの人は似合わない。私の高校時代は「スキップとローファー」のミカちゃんと似たようなことを思って過ごし、何も成し得なかった。美醜や性格の陰陽によるヒエラルキーをベースにした過剰な自意識に、勝手に苦しんで終わったのだ。

でもこんな自慢にも何にもならない思い出も、この小説の中では平成の青春として文学になっている。高校時代を振り返ると「もっとうまくやれたのに!」と思うことばかりだが、まああれはあれでよかったかと思えた。

 

 

この作品で印象的だったのはやはり最後の章。

「成熟しきっていない人間の集団における上と下」という、どう書いてもハッピーにならなそうなテーマが頻繁に顔を出してきた文章の最後の最後で、この不健康な視点から自由になったひとときが描かれる。

きっと前田は、将来もっと彼の魅力が評価されていくんだろうと思う、というかそうであってほしい。高校時代には目立たないしモテないのかもしれないけど、きっと素敵な大人になる。学校や会社みたいなだだっぴろい公共社会とは別の世界を持っている強さと、そこで輝く魅力が彼にはある。ずっと自分の才能に甘んじて「そこそこ」に安住してきた菊池は、動かずとも手が届く範囲内にあるような自分の生活と比較して、高校時代という特殊な時間に一生懸命何かに取り組む人間たちに光るものをより強く感じたのだろう。

 

この小説を読み終わったとき「青春時代が終われば 私達生きている意味がないわ」と音楽が頭の中で流れた。そうかもねーと思いながらソファーに寝ころんで、明日仕事頑張れるかなあと思いながらうとうとした。