ハイキュー_映画感想文

ものすごく良かった。

 

以下、ネタバレ気にせずに書いていくのでご注意ください。
また、私はフィクションに対しても本気で向き合いすぎるきらいがあるためまるで登場人物たちが実在しているかのような熱量で文章を書いています。こちらの点もご留意ください。

 

 

 

キターこれがハイキューだー!!!!!という気持ちにさせてくれるチャーミングなキャラたち、それにぴったりな声、高揚感を煽る音楽、スピードや重量を効果的に感じさせてくれる演出、そして両チームに寄り添った素晴らしいストーリー。どれをとっても最高だった。

原作ハイキューはスポーツ漫画だけど、スポーツにおける技術や戦略だけではない。少年漫画だけど、派手な技や癖の強いキャラクターだけではない。個人的にハイキューの魅力の主軸になっていると思うのは、チームで何かに取り組む人間の心の動きやそれぞれのスタンスといった情緒面の優れた描写だ。チーム戦である以上、メンバーの能力やメンタルの波長が合っていないとうまくいかないことがでてくる。ただそんなものは合わないのが普通で、合わないことによる摩擦がストーリーと成長を生む様子、そして身長や身体能力といった才能の凸凹に苦悩し乗り越えようと工夫する様子が、純文学ほど堅苦しくなく少年少女にも伝わる形で描かれているのがこの作品の妙である。原作への熱が強すぎて魅力語りが長くなってしまったが、映画でも情緒面を大切に描いていてよかったと言いたかった。

 

 

この映画を観て改めて感じたのはキャラデザの良さ。デフォルメの具合や特徴のつけ方がお洒落で、デザインの可愛らしさがストーリーに含まれる温かみとリンクしてより魅力を高めている感じがする。映画でもキャラクターの表情が丁寧に素敵に描かれていて、映画製作者様たちの気概が伝わってきた。

登場人物たちは春高に出るくらいなのでバレーボールの実力は勿論高くて、地道な努力をしてきた強い高校生たちなのだけど、日向はもちろん一見冷ややかな影山や月島たちにもどこか愛嬌があってそのギャップが魅力的。ハイキューの場合キャラクター全員に愛嬌が備わっているのでもはやギャップじゃなくてアーマーみたいな感じだけど。

どんなに手ごわい敵でも笑顔がかわいかったり、お茶目なことやらかしたりしているとやっぱり憎めない。ハイキューでよく言われることだが、敵チームにも感情移入してしまうくらいしっかり対戦相手のエピソードが描かれる。この会場にいる全てのチームにバレーボールをやってきた高校生活があって、それを終えないといけない時が皆にあるということを、それぞれのコートの去り方で思い知らされるのだ。

 

 

この映画で日向がアニメハイキュースタート時(2014年なので10年前)から変わっていないことが、一ファンとして嬉しかった。日向がとても日向で、永遠にチャーミングで負けず嫌いで強くあれ…!と願わずにはいられなかった。
研磨くんはもうこの声とけだるさがしっくりきすぎていて、声優さんというものがいるとは思えない。研磨くんそのもの。
クロさん、良い声。中村さんだと知らずに観ていたアニメシリーズのあの時期が黄金に思える。
本作で特に良かったのが、ツッキーの声。コミカルなシーンで絶妙にリアルな対応をすることで面白さが増しているのと、カッコいいシーンでは透き通った神聖なお声できめているのが、全方位に隙が無くてある意味ツッキーらしい。天才。(こういうのはあんまり分析しないほうがいいと分かってはいるんだけどね、ついやってしまった)

 

日向が研磨の策略に捕らえられて身動きが取れなくなっているのを見て腹の底から日向を応援し、熱い試合展開にどきどきし、最後は笑って泣いている音駒の選手たちに心の中で拍手を送って、烏野の勝利と次の試合への期待にほくほくしながら真っ暗な家路を辿った。

 

リズと青い鳥_映画感想文

敬愛する山田尚子監督の傑作。
女子高生たちの可愛らしさを盛り立てる素敵な音楽を担当されたのは牛尾さん。
今更ではあるが、観れてよかった。

桐島、スキップとローファーに続いてまた高校生のお話。意図せず青春に塗れている。

 

まずは、正直な感想。

胸が苦しくなる映画だった。高校時代という人間的に未熟で自分自身のことでいっぱいいっぱいになりがちな時期に、友人を振りまわしたり振りまわされたりする様子が、音楽と視覚と比喩をふんだんに盛り込んで表現されている。
大きな事件が起こるわけじゃないし、怒鳴り合いの喧嘩をするわけでもない。でも高校生活の日常に潜む歪み、普段は目配せ程度でしか表出しない歪み、たぶん女子社会に多い神経質な歪みがアニメーションならではの手法で表現されていて、精神に響く。淡く可愛らしい色使い・繊細な表情と、映像の意味するシビアな現実が、相乗効果で恐ろしいパワーをもって心を抉りにくる。
これらは誉め言葉である。美しい絵と音楽、そして「山田尚子節」なる素晴らしい演出を観れたことは間違いなくいい体験だった。

 

この作品で一番印象的だったのは、のぞみが持っているフルートに反射した光が、向かい合う別棟にいるみぞれの上でゆらゆらするシーン。

水槽を通して入ってきた光の、色が分裂して虹色がかっているのが綺麗。
また、ここで水彩画調ののぞみのステップにに合わせてピアノが鳴るシーンも、みぞれが大切にしているのぞみ像がこちらに生き生きと伝わってきて、なんて素敵な演出なんだ…!と感動した。
ふぐの水槽の前で目を閉じて束の間の休息をとるみぞれが、自分に投げかけられている強い光に気づいてぽかんとするところ、そして光があっちにいったりこっちにいったりと揺れ動くところが美しい名場面だった。

 

この作品は言葉での説明がなくとも登場人物たちの性格が把握できるように作られているのがすごい。

みぞれの反応がワンテンポ遅くて会話についていくのが難しいところとか、逆にのぞみはなんでもちゃっちゃとやりたいという性格が、2人の掛け合いからも見て取れて面白かった。みぞれはひとつひとつのやり取りを大事にしていて、毎回考えすぎてしまうから反応が遅くなってしまうのかもしれない。図書館でのシーンを見ると単にぼーっとしがちな性格というのもありそうだけど。のぞみは友人と心で深く繋がるみたいな関係は求めていなくて、"表面上みんなと楽しくやれればオールオッケー"なスタイルをとっているように見える。
このふたりは仲良がいいはずなのだが、親友的な関係が長くは続かないという予感が序盤から漂っている。絶対に分かり合えないところが最初からあって、それを無視していままでなんとか続いてきただけの関係なので、いずれその問題を解決するためにぶつかるか、問題はそのままに袂を別つか、決めなければいけない時がくるのだ。

部長さんと茶髪の子(名前が分からない)はこの二人の危うさを察知している。部長さんからは、彼女たちの様子を見つつも必要そうなところでははっきりと意見を言える気の強さ、正義感みたいなものが伺える。茶髪の子はみぞれとのぞみ両方の都合に配慮して、さりげなくフォローする姿が印象的。

あと、みぞれの後輩ちゃんたちが非常に可愛い。何を食べたらこんなに可愛く育つんだろう。この子たちみたいな後輩いたら可愛くてしょうがないだろうなあ。

 

 

突然ですが、ここから先は超個人的かつ主観的な感想になるので、作品から受けた美しい感覚を損ないたくない方は読み進めないことをお勧めします。

 

 

 

 

先に、以下の感想は作品批判では全くないことを念のため、本当に念のため断っておく。
綺麗で面白いものだけじゃなくて、人生の苦労も合わない人との関係も思い通りにならないアレコレも鑑賞者の心に届けようとするのが映画なので、登場人物に好きじゃないタイプの人間がいたとしてもその「好きじゃない」感情は作品本体とは関係ない。これは映画に限ったことではないが。私が物申したいのはフィクション作品のキャラクターの振る舞いについてであって、「もしこんな人が同級生にいたら」という空想がベースになっていることをここに書いておく。

 

のぞみがかなり嫌なやつに見えてしまったのは私だけだろうか。私にはこのストーリーが「無神経な人間に内気な人が蹂躙される」という構図に思えてしまった。のぞみの身勝手な行動と妬みに振り回されて疲弊するみぞれが不憫で見ていて辛かった。でもこういうのって決して珍しいことではないんだろうな。

また、「みぞれがリズで、私(のぞみ)が青い鳥」だと思っていたというのも、みぞれからの強い愛情や部活社会における立ち位置などの状況を把握したうえでみぞれに「捕まってあげていた」みたいな思考があるような気がして怖い。最終的には自分のみぞれに対する嫉妬心を告白するし、これは勘繰りすぎかもしれないけども。

のぞみは悪気があってやっているわけではないし、現にみぞれはどんなに酷い扱いをされたってのぞみに感謝しているでもそれはみぞれが悪意や敵意に対して鈍感かつプライドが低いからであって、それなりのプライドを持った人が「親友だと思ってた人が自分に何も告げずに部活をやめる、やっぱりやりたくなったからと急に戻ってきてソロパート任されてる、そんで音大に行こうかなーでもお金かかるしなーとか言ってる」みたいな目にあったらブチギレてオーボエで殴っても責められる道理はない、否、暴力はいけない。
まあただ、色んな人と分け隔てなく仲良くしていきたいのにノリが合うわけでもない人からこの先も一生続きそうな依存をされるのは面倒だなあ(辛口すぎたかも)と思うのぞみの心理がわからないでもない。
また、自分がどんなに努力しても横に並べないくらい圧倒的な才能を持った友人と一緒にいると、劣等感から逃れられなくて辛いから、あえて突き放すような雑な態度をとりたくなる気持ちも理解はできる。のぞみは人間関係も趣味も広く浅くありたいのかもしれない。少なくとも、そう見えるようにライトに振る舞っている。
だが私個人はみぞれと近い感覚の持ち主なので、のぞみのような楽観主義者の雑なところには眉を顰めてしまう。

みぞれの片思いが成就することも、大学進学後もこれまでと同じような距離感で仲良していくこともないだろう。でも、きっとみぞれはどんな想いも自分の好きな音楽を豊かにするための材料にしていける。そう思わせてくれるラストだった。

 

桐島、部活やめるってよと、懐古

今回は読書感想文というよりは、懐古味が強いエッセイのようなものになった。

桐島、部活やめるってよ」作者の朝井リョウさんと同世代の私は、この小説を読むといやがうえにも高校時代の記憶が蘇る。高校時代の友人と話しているときよりも鮮明に、未熟ながら人を読み空気を読み過ごしていたあの感覚が、いったいどこに眠っていたんだかうごうごと浮かんできた。

 

この作品にネタバレというものがあるのかわからないが、これ以降は作品の内容に触れていくので未読の方はご注意を。

 

 

 

このタイトルから想像できるのは舞台が高校だということと、部活の話なんだろいうということくらい。読み始める前は、桐島がなんで部活やめるのか、彼がいない部活がどうなるのか、結局桐島は本当に部活やめてもう戻ってこないのかみたいな話だという想定でいたし、大抵の人がこんな感じのストーリーラインがしっかりある青春群像劇だろうと思って読み始めるんだろうけど、全然違った。

実際の内容は、5人(文庫本化にあたって加えられたかすみも入れたら6人)の田舎の進学校に通う高校生たちの心情が、章ごとに主人公を変えながら語られていくというもの。風助の章以外では、桐島はあまり話に関わってこない。

 

この5人の主人公たちの共通点は通っている高校くらいで、それぞれ部活も性格もクラスのグループも、もっと言えば属している階級も違う。

そんなバラバラの彼らが学校生活を語るうえで必ず言及しているのは、「上下」だ。ヒエラルキーの、上下。派手か、地味か。
この階級制度に組み込まれずに高校生活を終えられた平成の高校生はどれだけいたのだろう。自然発生的で、明確・強固なスクールカーストによって、高校生たちは優越感を楽しんだり、学んだりへこんだり毒を持ったりする。自分の立ち位置を自覚させられることで自分の可動域が無意識に測られ、その範囲を広げようと垢抜け欲に駆られてアレコレやってみたりする。これを大人になることだと言えるのかはわからない。こんな洗礼をうけずとも大人にはなれるだろうし、そっちの方がヘルシーなんだろうとも思う。
階級ごとの人間の、周りからの視線と、自分自身を見る視線。これらの描写が本作のトピックのひとつになっている。

 

今観ているアニメ「スキップとローファー」も高校生の物語なので、この二作の強い青春性にあてられて精神が高校時代に退行しそう。さすがに中堅社会人がJKの心を取り戻したら痛いのでなんとかここに留まるよう踏ん張っている。

でも高校生活に心残りのある私はやっぱりあの恋愛の仕方が恋しくなってしまう。直接話すことは少なくても、教室の後ろの方の席から眺める後ろ姿とか、放課後偶然見かけた部活に励む姿、昼休みに友達と話しているときに出るちょっとした仕草とかに目線を持っていかれて、好きだなあと思うあの感じ。自分に対してどうか、だけじゃなくて、自分とは関わりのないところでの過ごし方を見る機会もたくさんあった上でのことだから、尚更感情への確信が強まる。確信と言えるのは青春時代を終えて振り返るだけの安全な立場にいるからなのかもしれない。当事者だった頃は「いいな~」くらいのぼんやりした気持ちのまま毎日ダラダラ過ごしていて、確信に変えようとはしていなかったかも。向こうは私の事を仲間くらいにしか思っていなかっただろうから。友達ですらない、学校行事などの本当に一時的な共通の目標に向かって一緒に頑張る仲間でしかないっていう自信のなさがあったから、これは恋愛感情まではいっていないことにしていた気がする。

今「桐島、部活やめるってよ」を読んで、感情や思考を言語化しようとしていなかった時代の記憶を掘り返して考え直してみると、この自信の無さの中には「上下」の感覚がなくはなかったんだと思う。
私は生まれながらに上層に就けるタイプの人間ではなかったからこそ、メイクやダイエット、制服の着こなしから私服までお洒落に気を付けてきた。部活動は一年も保たずに辞めて、バイトして貯めたお金で原宿に繰り出し、服や化粧品を買う。散々苦労して研究して毎朝時間をかけてようやく当時の私が思う「女子高校生らしさ」を身に付けられていた。苦労しすぎたせいか、高校時代に私の卑屈癖(性格の悪さ)が開花し始めたことに、当時の私は薄々気づいていた。そんな自分に爽やかの権化みたいな、恐らく遺伝子レベルで陽なあの人は似合わない。私の高校時代は「スキップとローファー」のミカちゃんと似たようなことを思って過ごし、何も成し得なかった。美醜や性格の陰陽によるヒエラルキーをベースにした過剰な自意識に、勝手に苦しんで終わったのだ。

でもこんな自慢にも何にもならない思い出も、この小説の中では平成の青春として文学になっている。高校時代を振り返ると「もっとうまくやれたのに!」と思うことばかりだが、まああれはあれでよかったかと思えた。

 

 

この作品で印象的だったのはやはり最後の章。

「成熟しきっていない人間の集団における上と下」という、どう書いてもハッピーにならなそうなテーマが頻繁に顔を出してきた文章の最後の最後で、この不健康な視点から自由になったひとときが描かれる。

きっと前田は、将来もっと彼の魅力が評価されていくんだろうと思う、というかそうであってほしい。高校時代には目立たないしモテないのかもしれないけど、きっと素敵な大人になる。学校や会社みたいなだだっぴろい公共社会とは別の世界を持っている強さと、そこで輝く魅力が彼にはある。ずっと自分の才能に甘んじて「そこそこ」に安住してきた菊池は、動かずとも手が届く範囲内にあるような自分の生活と比較して、高校時代という特殊な時間に一生懸命何かに取り組む人間たちに光るものをより強く感じたのだろう。

 

この小説を読み終わったとき「青春時代が終われば 私達生きている意味がないわ」と音楽が頭の中で流れた。そうかもねーと思いながらソファーに寝ころんで、明日仕事頑張れるかなあと思いながらうとうとした。

 

君たちはどう生きるか_なつやすみ日記

宮崎駿監督の最新作、「君たちはどう生きるか」を観てきた。

ネタバレを含みますのでご注意を。

また、今回の感想文は非常に私的なものになったので、映画の考察を求めている方のご希望には添えないことをここに断っておく。なつやすみ日記くらいなものと捉えていただければ、そうがっかりすることはないかと思います。

 

 

 

 

映画から受ける直感を楽しみたいと思っていたから、できるだけ前情報を入れないようネット検索などは控えていた。しかし鑑賞前にツイッター上でネタバレとは程遠いけれど先入観を植え付けるような刺激的な情報に出くわしてしまった。主題歌発表のニュースを見たことすら後悔するくらいこの作品の全てに驚きたかった私は、先に「刺激的な情報」と述べたツイートと出会ってしまったことを幸か不幸か未だに分からないでいる。ただ、この映画をとても楽しめた事実だけがここにある。

 

刺激的と書いたものの、実際はほんにくだらないことかもしれない。「しょうもな」と思う人もいることを承知の上で、該当ツイートについて紹介する。私が見たツイートはもう埋もれてしまってどれかわからないが、「君たちはどう生きるか ダイナミック」で検索をかければいくらでも出てくるのでご興味あれば調べてみてください。

ダイナミックコードというアニメをご存じだろうか。私がこの傑作と出会ったのは一昨年の暮れ、友人からの紹介だった。「見る抗うつ剤wwwめっちゃ面白いから観てwwww」というメッセージと共に、ダイナミックコードの動画リンクが送られてきた(Youtubeでは迷場面集としてまとめられているものがあり、ニコ動またはDVDではフルで観られるらしい)。友人が意気揚々と私に送りつけてきたその動画を観たのだが、視聴一回目では「?」という感じで、スマホの小さな画面で流し見していたせいか、あまり面白さが伝わってこなかった。しかしあまりにも友人が熱心に推すのでもう一度画面を凝視しながら観てみると、あら不思議、めちゃくちゃ面白い。集中して絵をよく観察&コメントをちゃんと読むことで、キャストの豪華さや絵の華やかさだけでない味わいを楽しめる。また、以前ツイッターで私がそれと知らず「ダイナミック違法建築」なるものを見て知っていたことも面白さに拍車をかけた。なんでこんなしょうもないこと覚えていたんだろう…
本題から逸れて随分経ってしまったのでダイナミックコードの紹介はここまでにしておくとして、このアニメがどう映画に関わってくるかというと、鳥だ。ダイナミックコードにおいて「ダイナミックバード」と呼ばれる動的鷺が、どうやら映画に関係しているらしい。ツイートから詳しいことは分からなかったが、詳細が気になるとはいえ検索しているうちにネタバレを食らうなんてことがあったら大変だから、このままツイッターを閉じた。

 

 

その数日後、映画を観た。

 

 

まずはまともな映画感想から。

私の大好きなジブリのキャラクターデザイン・背景が健在で、まずはそこに安堵した。
一鑑賞者の勝手な希望だが、ジブリのキャラクターはこれまでの宮崎駿監督作品の登場人物たちのような丸みを帯びた顔立ちをしていてほしいし、背景の手描き感というか、絵画のような画風は失われてほしくない。実写みたいにリアルで立体的なアニメーションも綺麗で観て楽しいものだけど、動く絵画のようなジブリ作品を愛する気持ちも強い。本作は後者の想いを満たしてくれる作品だった。引っ越し先のお屋敷は「陰翳礼讃」で語られているような薄暗さがもたらす美が、あちら側の世界では洋書からインスピレーションを得たであろう西洋的な鮮やかさを湛えるインテリアの美が画面を飾る。自分を飲み込むくらい大きなスクリーンでこの作品を観られることは幸せだなあと鑑賞中純に寿ぐほど、映画館で観ることに価値がある作品だったと私は感じている。画集が出たら買おう。

 

物語について。

少年が異世界に迷い込み、ちょっと成長して現実に戻る物語という意味では「千と千尋の神隠し」と近い運びだった。迷い込む異世界の様相は「君たちは…」では西洋風、「千と千尋…」では東洋風と、かなり違うけれど。
また、隕石の塔に魅了されて&本を読みすぎて頭がおかしくなって妄想の世界(架空の世界というわけではなさそうだが)に行ってしまい、その世界のバランスを保つ者として毎日石を積み上げる=世界を造り続けている眞人の大叔父の姿は、森見登美彦「きつねのはなし」の第二編「果実の中の龍」に出てくる先輩とそのおじいさんを彷彿とさせた。読書に囚われた人間の描き方が2作品で重なるのが面白い。この2作品に限らず、本読みの成れの果てはこのように描かれるものなのかもしれないが。

知的好奇心やものづくりへの衝動は血が、細胞が生み出しているが、眞人は大叔父さんの思想と世界構築を引き継ぐことはせず、自分の世界を生きていくんだ、自分の世界を作っていくんだと決意を固める物語だと、私の目には映った。

 

作中で、ああジブリだなと思ったところが何点かある。

ひとつめは、眞人がアオサギを躊躇なく殺そうとするシーン。
彼はアオサギから何かしらの悪意を皮膚で感じ取っていたのかもしれないが、鳥の正体がよくわかっておらず、特に被害も受けていないうちから殺そうとする。ジブリの登場人物にはこういう種類の勇気を持った人が時々いる。それが残忍さとして描かれているのか、生きる上での逞しさとして描かれているのか計りかねるところがある。

ふたつめは、眞人が義母を現実世界に呼び戻そうとするシーン。
眞人は義母が自分を拒絶しているという真実を知ってなお、産屋に籠る義母に「お母さん」と呼びかける。精神的ショックの大きい場面だが、主人公は逃げ腰になったり塞いだりすることなく、ただ目に涙を湛えながら必死に呼びかけて義母を取り戻そうとするところにジブリの人間らしさを感じた。眞人のこの行動になぜジブリだなあと感じたのか詳しい理由はまだ自分の中で見つけられておらず、現状直感に近いのだが、健気とはまた違った力強さを感じさせる真直ぐさと少しの幼さを孕んだあの小/青年像がジブリのアイコンのひとつなのかもしれないなと思っている。
無慈悲・冷徹にも見えた主人公が内に秘める愛(それが他人に向けたものか自分が欲しているものかはわからないけれど)が表出した印象的な場面だった。

 

 

最後に、阿呆らしい感想を。

私的ベスト印象賞はダイナミックバードに贈られる。
初登場シーンの彼は小さく美しく静かなアオサギ。主張が少なめだったため「あーこれがダイナミックバードね、話題にするほどダイナミックじゃないな~ 全くツイッターは大袈裟だな~」と思っていた。しかし次第に彼はキーキャラクターの匂いを醸してきてどんどんダイナミックになってゆき、彼にフォーカスが当たるたびに私の頭の中では「ダイナミックバードだ!ダイナミックバードだ!」と子どもの声が飛び交って邪魔だった。
この2作品の内容に関連があるはずもないのだが、ダイナミックバードの一点だけが時空に穴を開けて異次元間を行き来しているようだ。こんなことを嬉々として書きつける私の脳細胞の幾分かはこの暑さでお陀仏になっているのだと予想がつく。

春琴抄_読書感想文

私は視力がとても悪い。
しかしまだなんとかレンズが存在する程度の近視なので、重たい眼鏡かコンタクトレンズがあれば生活できる。
ものの輪郭が無い世界には慣れ親しんでいるが、何も見えない生活は私には経験がない。だから、谷崎潤一郎の盲目もの三部作のうちのひとつである「春琴抄」を語るには、ここに書かれている言葉を信じずとも拝借しなければいけない。昭和という時代背景もあり現実とは異なる表現がされている箇所もあるだろうが、時代を反映したフィクション作品として読み、感想文を書いていこうと思う。

 


春琴抄」は、親の甘やかしに加え裕福・美貌・盲目が故に驕慢に出来上がった薬屋の娘 春琴と、地方の薬屋から奉公に来ており春琴の手曳き役をしていた佐助の間の奇妙な関係を描いた物語である。
最初は奉公人として仕えていた佐助だが、見目麗しく琴の才に溢れる春琴を慕い憧れ、自らも糸竹(琴や三味線などの和楽器)の道に入る。春琴による身体的・精神的な罰を伴う厳しい稽古を受けながら主従関係とも師弟関係とも夫婦ともつかぬ生活を送っていたある日、春琴の高慢さが恨みを買ったのか、彼女は寝込みを襲われ顔に熱湯を浴びせられる。焼けただれた顔を見られたくないと言う春琴のため、佐助は自らの目を針で刺して失明し、「これでもうお師匠様の顔を見ることはできないので安心してください」と言う。こうして開けた新たな想像上とも言える触覚・聴覚の世界を二人は楽しみ、共に余生を過ごす。

 

 

春琴の残忍さが放つ魅力が、この作品の魅力でもある。
盲目がもたらす神秘性と天性の美貌及び芸事への才能、そしてそれを(恐らく誇張して)説明する佐助の言葉が、彼女の魔性をより魅力的に見せているのだろう。家が裕福なので周りからお嬢様扱いされる、お顔が整っているので我儘が通る。こういったことが彼女の驕慢さを増長させたのだと作中で説明されている。
また、盲目が性格にどんな影響を与えうるのかについては私の知る由もないが、彼女が神経過敏であったことは文章から読み取れる。私もホルモンバランスの調子によっては些細なことが気になる性質なので、彼女の苛立ちには共感できる場面もあった。ましてや目が見えない中生活していくとなると不便がつきまとい、日々ストレスを溜めて、より神経が尖ることは想像に難くない。また、目からの情報が遮断されることによって聴覚や触覚が冴え、そこに不快を感じたときのストレス度合いが大きいことは、説明がなくとも理解できる。
環境要因か生来の性格故か、不快を感じやすい人間であり、周囲に辛く当たることで気分を晴らす。そんな彼女の態度は「意地が悪い」と評されているが、意地の悪さは神経の鋭敏さが所以で、その神経過敏が彼女の類稀なる才能に繋がっているのだから、才色兼備の女の意地悪が悪魔的魅力を放つのも納得できる。

 

一方、佐助は春琴の特別さに傾倒し、奉公人として、弟子として、常に低頭な姿勢で彼女を崇め奉る健気な男だ。彼女が受けた凄惨な災難を共にせずにはいられず自ら両目を潰してしまうほど、春琴に我が身を奉じていた。
途中彼のエゴの無さを不思議に感じたが、小説の終わり頃にも書かれていたように、この奉公が佐助のエゴの現れだったのだ。春琴の苦痛を癒し喜ばせるためでもあるが、佐助の理想とする春琴の姿のままでいてほしいというエゴが、彼の行動の根底にはある。

 

佐助も視力を失ったことを、本当に春琴は喜んでいたのだろうか?
自分も失明したことを告げたときの「佐助それはほんとうか」という春琴の言葉が、彼には「喜びに慄えているように聞えた」という。もしそうだったとしたら、それは春琴にとって佐助は目の代わりとしての、つまり生活上の必要を越えた存在であったことを意味する。それは佐助にとって都合が良く、二人の美しい心の繋がりを表しているようにも思える。しかしあくまでも彼は失明するという「災難」を被っているわけであり、その災難を無視して彼の忠義心を喜ぶ春琴にぞっとさせられるところがあるのは否めない。その悪魔性もまた、佐助を捕らえて離さない彼女の魅力のひとつなのだろう。


この作品の目的は物語という形をとって美を表現することだと私は感じたのだが、これが正しければ、美には様々な形があって、単純なものではないのだなと思わされる。
登場人物が美しいお顔をという明らかな美の素質を持っていることは勿論なのだが、春琴はシンデレラのように殊勝で温和な心を持っているわけではない。どちらかといえば、彼女の性格はシンデレラの醜い義姉たちに近い。しかし春琴抄の場合、そのプライドの高さや残虐さが却って彼女の美しさひいては物語の美しさを引き立てているようだ。なぜ同じような性格を持ったシンデレラの義姉たちは美しくなく、春琴は美しいのか… 動きや口数の少なさなどの振る舞いからくる差だろうか、まあこの件はあまり掘り下げないほうがいいかもしれない。

 

怪物_映画感想文

作品の鍵となる部分に触れているので、まだ観ていない方はご注意を。

 

 

 

 

 

電車のデジタル広告で見ていた本作のCMはとても短く、主要登場人物の表情が切り替わっていくだけのものだった。だから彼らの表情だけが頭にこびりつき、ストーリーに関しては想像すらついていないままスクリーンで全容を見ることになった。そしてあの苦しさが充満する湊の表情とちぐはぐな、戯れるような嬉しそうな依里の笑顔の意味するところがわかって、鼻の奥がつんと痛くなった。

 

理性や自分の所属する社会の中の普通と、抗えぬ自分の性質との矛盾に戸惑う湊。自分を運ぶ流れに身を任せ、時折大人びた諦めのような落ち着きを見せる依里。幼い二人は「怪物だーれだ?」の合言葉で秘密裏に繋がり、ひと夏の青春を過ごす。

 

秘密基地である廃電車の中で彼らがゲームをするシーンが特に印象的だった。
「かたつむり」や「豚」が描かれた自作のゲーム用カードの中には、「怪物」の絵が紛れている。彼らの想像する怪物は、黒いハートに手足が生えたような姿だ(ハートではないのかもしれないが)。ハート形土偶に近い造形。なぜ彼らにとっての怪物はあんな形なのか。鋭い牙や角はないし、こちらを睨む目も持っていないし、人間のように直立している。しかし、体は棒人間のようで、頭はハート形。ただ人のような形をした、人ではない得体の知れないものが表されているような絵である。

 

激しい雨の中、電車は始まりへと出発する。
「生まれ変わったのかなあ?」「いや、そんなのはないと思う」「そっか、よかった」
彼らは自分たちを制限する柵のない世界に辿り着き、ありのままでどこまでも一緒に冒険するのだ。

 

 

私はこの映画がクィア・パルム賞を受賞したことを知っていたし、この受賞が意味するところも分かっていた。しかし映画中であまり同性愛を特別に感じることはなかった。二人の間にある愛情の特別感や問題提起を際立たせるために「同性」というカテゴリーで扱っているのではなく、ただ自然発生的な恋愛として描いていたように感じたからだと思う。勿論、同性愛や性別役割、容姿いじりをまるっと無視してこの映画を観ることはできない。だがそれに限定された問題ではないような気がするのだ。

湊は「なんで生まれてきたんだろう」と家族を持つような普通の幸せを手にすることができない自分の存在に疑問を抱くが、それは性的嗜好のマイノリティーに限った話ではない。性的にはマジョリティーな人間でも、社会で広く「幸せ」だと定義されているグループに入ることができず、幸せになれない自分は何のために生きているんだろう、何のために生きていくんだろうと思うことはある。家族や恋人、子ども、学歴、美、お金、仕事。SNSで幸せの競争が苛烈を極める中、自分だけの、自分の為の幸せを享受することを忘れてしまう。校長先生が湊に言った「誰かにしか手に入らない幸せなんてそんなの幸せじゃない」という言葉は、固定された幸せを手に入れられなかった人たちを可哀想だと言い捨てる社会への反抗のように聞こえた。

直接的に扱われたテーマだけではなく、もっと普遍的な愛情や幸せについても語られているような気がした本作。「普通じゃない人間」が生きていくことについて、他人事ではなく、自分自身のことのように考えながら鑑賞した。

-- 追記--

これを書いたときは、クィア・パルム賞はLGBTを扱った映画に対して贈られるものだというざっくりした知識しかなかったが、もう少し詳しく調べてみると、「クィア」とは「風変りな」「奇妙な」という意味もあることを知った。賞の授与において審査員長が語った言葉が正にこの映画の意義を表しているようで、そのメッセージがじんわり胸に染みた。

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この映画の中で気になった人物がもう一人。保利先生だ。彼は偶然に偶然が重なって破滅に追い込まれたような不憫な男である。しかし彼の転落の原因はその人の良さが裏目に出たことだけではなく、彼自身の不器用さも大いに関係している。ここからは厳しい目線で語っていくので、映画から受けた純な感動を損いたくない方はこれ以降は読み進めないことをお勧めする。

 

彼の不器用さがよく出ていたシーンは以下3場面だと思う。

1つ目は、あの明らかに趣味趣向の異なる女性との交際である。堀先生の趣味は本の誤植を見つけること。本がぎっちり詰まった本棚のあるアパートに住み、プロポーズは何気ない日常の中でさらっとしてしまうような文化的で庶民的な男である。一方彼女はイージーな人生を送っていそうな明るい茶髪のちょいギャル美女で、プロポーズは夜景の見えるところでするものと言う女。保利先生とは性格もファッションも生活スタイルも違う。彼らはどうやって出会ったのだろうか、そしてお出かけ中にはどんな話をするのだろうか。謝罪会見の後彼のアパートに来たパパラッチは、彼女が呼んだものだと私は思っている。利用できるだけ利用して、使えなくなったらポイ、というわけである。

2つ目は、生徒への接し方。子どもは先生や親が絶対的に正しいと思い込んでいることがある。私も台風のような反抗期の前にはそういう時期があった。「男らしく」などの些細な言葉が時に子どもたちの中で大きく響き、彼らを苦悩に陥れてしまう。また、子どもたちの行動や発言の真意を見抜く洞察力も本作では重要なポイントだったように思う。だが洞察力にも限界があり、神ではない私達はすべてを見通すことなどできない。見えないリスクに配慮することの難しさ。

3つ目は、湊の母への謝罪時の態度。これが致命的だった。学校への不信感、そして嘘をつく子どもへの不信感で溜まったストレスによってか、保利先生は謝罪会で自暴自棄になってしまう。言えと言われたセリフを言い、謝れと言われたから謝る。学校の方針に納得いっていないことを態度で示してしまった。それを罪を認めながらも不誠実な態度をとっているのだと捉えられてしまったのはもう仕方がない。

 

湊の母も保利先生も自分自身の苦痛を押し殺して、子どもたちを愛して大切に育てていただけに、この結末は辛い。後に残された大人たちにも、湊と依里がのびやかに暮らす楽園が見えるといい。見えて、この辛さを抱えながらも、絶望せずにいられたらいい。

-- 追記2 --

電車のデジタル広告とカンヌでの受賞ニュースしか前情報を入れずに映画を観て、私はこの映画のラストで子どもたちは別の世界に行った、つまり亡くなったのだと思った。彼らが乗っていた電車は土砂崩れに巻き込まれ、その衝撃により気を失った上に水が流れ込んできて…そして彼らは自分たちの理想とする晴れやかで自由な世界に逃れた、という想像をしていた。
しかし作成側の意図は違って、子どもたちは生きているのだと、映画鑑賞後にインタビュー記事や動画を見て知った。細かい解釈の違いはあるのかもしれないが、監督と脚本家で「生きている」という点での認識は一致しているとのこと。
彼らは想像上の理想郷に逃げたのではなく、これからも現実を生きていくという話なのか。

自分の解釈と作成側の意図がこうも違うとは思わなくて驚いた。改めて、映画で明示していないことはあくまでも自分の中での仮説としておかないといけないなあ、自分の感想を信じ込んではいけないなとちょっと反省した。

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私は非常に主観的にこの映画を観たので、まだまだ考察に欠けるところがあると思う。感想文だから絶対に正しいことを書かなきゃいけないということもないのだけど。
他の人がどう感じたのか、どういう評論が出ているのか気になって少し調べたところ、面白い記事を見つけた。GQのCUTUREコラムに寄稿された、岡室美奈子氏の映画レビューである。記事のリンクを張ってもいいか微妙だったので、記事の概要だけ記しておく。
氏は本作の映画パンフレットにも文章を寄せているという。監督や脚本家の歴代作にも触れながら解説されており、本作を観る上で押さえておくべきポイントが分かりやすく書かれているので、気になる方は是非チェックを。

 

 

作品解説については他の方に任せたところで、この映画感想文を〆る。

この映画で示された問題を考察するのもいいし、是枝監督の撮る美しい町と秘密基地と人間に感化されるもいい、カンヌ国際映画祭で賞をとった素晴らしい脚本の妙を楽しむのもいい。
人それぞれに考えたり感じたりすることができる、素晴らしい作品だった。

あと数年したら(早速今年書く人もいるだろうが)文学部の論文課題にもなるんだろうなと、この作品に間に合わずに卒業してしまった運命に少し悲しみながらここに社会人の稚拙な感想文を置いてゆく。

湊かなえ「告白」 読書感想文とカバーイラストの少女についての考察

告白。ネタバレにご注意。

芥見下々氏描きおろしカバー(正確には幅広帯)に惹かれて買った本作は、既に映画で物語の概要は知っていた。本で読んだらどんな印象を受けるんだろうと思いながら開くと、作品の興味深さとミステリー小説という形式のおかげですらすら読み進み、あっという間に完走。情報は濃ゆいのだけど、文章はさっぱりしていて読みやすく、必要なものだけをここまで綺麗に凝縮する湊氏の技量に敬服した。下々氏(私は呪術廻戦の大ファンで、友人と漫画の話をするときに「げげさん」とお呼びしているのでここでは下々氏と書かせていただく)のコメント「若さを肯定しつつもはりぼての達観が青ざめ、挫けていく様を見るのが私達は大好きなのです。」に、読了後「この感覚のことを言っていたのか…!」と非常に納得した。カバーイラストは言うまでもなく素敵。下々氏の描く女の子はいつも最高に素敵です。

 

章ごとに一人称で、つまり語り手の主観でこの一連の事件について語られる。そのため登場人物たちの行動の動機や思考回路など、人の内面における真実は読者には明かされない。5つのカメラから一つの対象を撮影していて、それぞれの画角から映るものは見えるし、5点の映像を頭の中で統合して立体に創り上げることができそうなのだけど、死角があったり、同じ個所を写しているはずなのに少し矛盾があったりと、完全な姿は分からないようになっている。巻末の映画監督インタビューでは、この矛盾を「余白」とし、読者が自分の思うように想像して埋めればいい、だからこの作品は面白いんだというようなことが書かれていた。つまり、推理が面白さの要因の一つということ。読みながら、無意識のうちに登場人物たちの本当の人格を彼らの発言や行動から推理し、「この人はこういう人なんだ」というイメージを自分の中で形作っていく。読み進めるにつれて、いかに自分の推量が間違っているか、浅はかであるかを思い知らされる。


自身の語りと他者から見たときの印象にずれがあるのが少年Aと少年B。私は少年Aを常人とは違った感覚の持ち主であり、快楽-戮を行うタイプのキャラクターなのだと誤解していた。また、少年Bに関しては、自分の意見を言うのが苦手で少し自分に自信が無いだけのごく普通の中学生のように見えていた。彼らが事件について語りだすまでは。あの-人事件によって、彼らの社会的評価とは異なる内面が明かされる。しかしそれは本人が開示しない限り、教師や親であっても気づくことは無い。世の中はこういうギャップで溢れているんだろうなと思う。

人間が生来持っているはず(?)の倫理観に疎く、サイコチックな言動をしているように見えた天才少年Aは、実は内面に母親への強い愛を秘めていた。表面上は同級生たちからの注目を集めるために危険な発明電機を投稿しているウェブサイトを開設したり、先生から危険だと非難された発明品を科学工作展に出品したりと攻撃的な態度が目立つ子どもだったが、実はすべて母親に会いたい、母親から評価されたい一心でやっていることだった。最後には自分の科学工作展入賞より中学生一家-害事件のほうが大きく取り上げられているのを見て、-人事件の犯人になれば母に気づいてもらえるのではないかとまで考えてしまうほどに。同級生からは大人びている印象を持たれていた彼だが、内側は母からの愛情をひたすらに求める子どもらしさというか、幼さが残っている。

一方少年Bは気が弱く控えめな子ども、そして親からはひたすらに優しい子だと思われていた。先生の告白の後、お父さんが働いてくれてお母さんが守ってくれる、自分の唯一の居場所で、穏やかでやさしい気持ちで生活を送る。残り少ない人生に感謝して過ごすという、意外な裁きの効果。「やさしい気持ち」とは言え、家族を大事にする振る舞いの裏には、自分の保身でいっぱいな思考があった。弱者の自己保身や自己顕示欲が、いつだって水面下で暴走している。

最後に森口先生がこの少年たちへの徹底的な裁きの手法を披露する様子を見て、勧善懲悪的な快感が勝手に湧いてくるのと同時に、あの少年二人はどうして悪なのか、正しい裁きの形なんて存在するのかとも考えてしまった。この題で考察すると収拾がつかなくなってしまうので、ここに詳しく書くのは止めておく。
もし各登場人物に感情移入して読んだら、確かに「イヤミス」というカテゴリーが意味する通りの感想を抱いていただろう。しかしひとりひとりに事情があって、動機があって、事件に繋がる一連の原因達があって、それらをすべて勘定に入れて正しい結末を算出することなどできなかった。だから私はラストシーンで嫌な気持ちになるというよりは、登場人物たちの行動を見守った末に「やはりこうなったか」と思うしかなかった。

 

 

特別カバーについて。
牛乳とへその緒で繋がっている女の子は委員長だろうか。それとも愛美ちゃんが中学生になった時の姿?先生が中学生だった頃のイメージ?普通に考えたら委員長なのだが、メインキャラクターではない※委員長を表紙に描くのが私には少し不思議に思えたので、別人物である可能性も捨てずに考察してみたい。
※第二章「殉教者」は委員長目線で語られるのでメインキャラと言えなくもないが、小説における委員長の印象はあまり強くなかった(筆者主観)

下々さんの表紙イラストにおけるポイントは「ブレザー&スカート姿=女学生である」「牛乳とへその緒で繋がっている」「頬に血痕がある」「右膝に絆創膏」「左足の靴下が脱げている」点だろう。
へその緒で繋がっているということは、この女子中学生は牛乳から栄養をもらって生きているということ。母なる牛乳。(母と言えば、少年AとBの歪な母への愛情を思い出す。)そしてこの描写は、少女がまだ独り立ちできない発育段階にあるということを意味しているように思える。何かから栄養をもらい、頼ることでしか生きることができない。家出しようにも正社員として働くことはできないし、他に養ってくれるような人もそういない。子どもたちは親や学校と見えない鎖で繋がれているのだ。しかし同時に温かい子宮に守られてもいる。それは親が提供してくれる家やご飯、愛情、学校の教育やクラスという場所、そして未成熟な少年少女を一律に守ってくれる法律だ。
そんな安全な場所で、頬に血をつけている少女。少年A/Bにつけられたものか、それとも自己の犯した罪を象徴する返り血か。自分が傷を負っている可能性もある。
膝の絆創膏はお転婆な雰囲気を醸し出している。この点に関してはクールな委員長よりは愛美ちゃんみたいな少しいたずらずきなタイプの子の方がイメージに合っている気がするが、どうだろう。そうでもないか。ただ単に部活動でしょっちゅうあざや擦り傷を作っている中学生らしさを表しているのかもしれない。
片足脱げた靴下には何も思い当たらない。何を表しているんだろう。意味は特に無く、デザイン性の問題だったりして。

映画を観返してからもう一度カバーを見て思ったのだが、この女の子は委員長役の橋本愛さんに似ている気がする。
この映画の橋本愛さんは完璧だった。原作における委員長は「地味な」顔立ちなので原作通りではないキャスティングだなと思ったが、映画の委員長は原作とはまた違った魅力があった。というか魅力がほとばしっていて、主役級の印象を焼き付けるようだった。あの冷たい狐の面のような表情、肩より少し上で綺麗に切りそろえられた黒髪、黒いフリルの短いスカートとハイソックス、何かモチーフのついたシルバーのネックレスと華奢な腕を覆う数珠のようなアクセサリーたち。まさにルナシーの信奉者の姿だった。

閑話休題。イラストの少女についてネットで調べてみた。しかし私の検索の仕方が悪かったのかこの少女の正体は未だ不明で、下々さんによるイラスト解説やこのイラストに対する考察記事なども見つけることはできなかった。皆さんはどう思いますか?この少女が誰なのか、このイラストは何を表しているのか。何か思い当たることがあれば、ご自身のブログなどに考察を書き起こしていただけると幸いです。私楽しく読みますので。

 

無意識のうちに自分の都合の良いように解釈してしまうというどんな人間にもある習性、そして自分の愚かさを受け容れきれなかったり、自分の愚かさに目を瞑って他者を見下したりする人間の性質を利用した興味深い作品だった。そして限定カバーイラストも素敵。下々さんの作品解説とイラスト解説が公式サイトに上がりますようにと星に願っている。