三四郎_三四郎の野々宮に対する評価とその変遷

三四郎が美禰子に惹かれるに従って、彼の野々宮への評価が変化していくのが面白い。

 

初めて野々宮に会った時「洞窟に閉じこもって研究ばかりしている鬼才人」という印象を受けた三四郎
池のほとりで考えに耽りながら、以下のように野々宮の勤勉ぶりを称賛する。

「野々宮君は頗る質素な服装をして、外で逢えば電灯会社の技手位な格である。それで穴倉の底を根拠地として欣然とたゆまずに研究を専念に遣っているから偉い。」(27)

また、大学の建物に対する野々宮の持論を聞いて彼の鑑賞力に感化され、三四郎も野々宮を真似て建物を観察するようになる。
この時点では三四郎は野々宮を立派な研究者であり、ものの良し悪しのわかる文化人だと評しているようだ。
野々宮の人間性については、まだこの段階では言及していない。

しかし中盤、野々宮を軽視するような発言がちらほら出てくる。

運動会の日、フロックコート姿で計測係を務める野々宮を見て、

「…今日は大変働いていますね…だって大分得意の様じゃ在りませんか」(154)

と美禰子に話す三四郎
すると美禰子は「あなたも随分ね」と三四朗の皮肉を察知し、何を思ったか、
野々宮の海外での活躍と、それを成すための貧相な生活について褒め出す。

この会話が三四郎の中で蟠っていたのか、その後広田先生宅を訪問した際先生と野々宮を比較して

「野々宮さんも広田先生と同じく世外の趣はあるが、世外の功名心の為めに、流俗の嗜慾を遠ざけているかの様に思われる。」(161)

と考える。

あたかも「野々宮は天賦の才の持ち主ではない」とでも言うようである。

この比較の主意は、ある人と対面した時に競争心が煽られるかどうかを論じる点にあり、野々宮を愚弄する事が目的ではない。
目的ではないとしても、人に「功名心がある」と言う場合、それは大概嫌味である。
名声なんかのためにああやって自分を穴倉に軟禁して研究をやって
いるんだあの人は、という含みをあえて持たせているように見える。

 

この野々宮への評価の下落は、自分が美禰子と一緒になれない可能性への拒否が引き起こしている現象なのではないか。

野々宮は確かに強者である。
世界にその名を知られる研究者であり、
自分より先に美禰子と知り合っている男であり、
彼女とはリボンをプレゼントしたり手紙を受け取ったりする関係性を既に築いている。

しかし美禰子の思わせぶりな態度に魅了されている三四郎は、その事実を頭では分かっていても心の奥底では受け入れられない。
表には出さなくても、こっそり野々宮の粗をいつも探している。
そして彼が戦えない相手ではない、あわよくば自分のほうが優れていると自分の中で証明しようとしている、
と私は読んだ。

 

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夏目漱石(2000) 『三四郎』[第二版] 新潮社