銀河鉄道の夜とカムパネルラ

宮沢賢治銀河鉄道の夜」の私なりの解釈と、米津玄師「カムパネルラ」の考察をここに記録する。


私が初めて「銀河鉄道の夜」を読んだのは小学生の頃で、当時の私は「やさしい人になるのが大事なんだな」くらいにしか思わなかっただろう。しかし大人になりあらすじも読み方も全く記憶の彼方に吹き飛んだ今読み返して、一番に感じたのは悲しみと美しさだった。幸ってなんだろう?神様って?死とは?これらの問いが解決されないというか、解決できないような悩ましさを夢のなかの出来事として描くことで、現実の厳しさは幻想的な美しさを纏う。
そして「銀河鉄道の夜」を題材に作られた楽曲「カムパネルラ」。初めて聞いた時、星や宝石を彷彿とさせるきらきら感とレトロ感が素晴らしく音楽で表現されていることに衝撃を受け、憂いと前向きさを両方感じさせる歌詞に心打たれたことを覚えている。この曲の元となった小説を読んでから聴くと、曲が言っていることだけではなくて、その前後がストーリーとして頭に入ってきてより一層味わい深い。
そんな「銀河鉄道の夜」と「カムパネルラ」から受けた感動と謎についてこれから書いていこうと思う。

 

■小説「銀河鉄道の夜
この作品は読み手によって受け取り方が大きく異なるのではないかと思う。その理由は、この作品の主題や意図を作者が明確に提示していないからではないだろうか。そもそも意図なんてないのかもしれないが。そして登場人物の心の動きが読みづらいこともその原因のひとつだと思う。彼らの感情が動く動機が明確に描かれていないというか、なぜここでこんなふうに思考するのか不思議、という場面がいくつかある。ジョバンニに完全に共感できる人は少ないだろう。この漠然とした物語に対して、自分個人の人生経験や価値観を用いて自分が納得する読み方を見つける=解釈するので、ひとりひとり違った読み方になるだろうし、もっと歳を重ねたとき読んだらまた違った感想を抱くのだと思う。作者や登場人物が読者に訴えかけてこない作品。明確ではないからこそ、人それぞれの解釈ができる。読書感想文にはぴったりの題材である。
と、感想文の冒頭を作った後でQuizKnockの「【読書会LIVE】宮沢賢治銀河鉄道の夜』」を観たら河村さんたちが同じようなことをおっしゃっていて、なんだか彼らの発言をパクったみたいになってしまったと焦った。しかし内容変更せずこのまま使う。だって折角作った文章だもの…

まずはジョバンニの感情の動きが不思議な個所について、該当シーンを以下に挙げる。

  • 「鳥を捕る人」に絡まれるシーン
  • 女の子(かおる子)とカムパネルラがお喋りしているシーン

両シーンとも、ジョバンニは不機嫌で、何かに対して悲しんでいる。その原因が初見ではよくわからなかった。「鳥を捕る人」は多少貧相で怪しい挙動をするがただの気のいいおっちゃんかもしれないから楽しくおしゃべりすればいいじゃないかと思ったし、女の子も何か悪いことをしたわけではないんだから嫉妬していないで仲良くしなよと言いたくなった。しかしジョバンニはまだ小学生。自分の感情にとても正直なのだ。言語化しづらい不快感を、「なにか大へんさびしいようなかなしいような気がして」「こんな変てこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思いました」といったシンプルで少ない言葉で表すことが、彼のできる精いっぱいなのだろう。だから彼が不機嫌な理由は明確に語られず、読者の推量に委ねられるのだと思う。(宮沢賢治作品の特徴、という可能性もあるが、私はそれを判断できるほどまだ読めていない)

彼を不機嫌にした原因の大半はカムパネルラであると思われる。ジョバンニはカムパネルラとずっと二人でいられたらそれでよかったのだ。だからふたりの邪魔になったり、カムパネルラを自分から引き離す脅威になる人物に対して冷たく当たってしまった。ここでなぜこんなにもジョバンニがカムパネルラに依存しているのかと考えると、「自分に優しくしてくれる唯一の学友だから」「まだジョバンニは幼いので、カムパネルラしか頼れる人はいないと思い込んでしまっているから」くらいのことしか思いつかず、若干説得力に欠ける気がしている。「小学生だから」に収束させるしかないのかな…

このときのジョバンニの一番の願いは、カムパネルラと一緒にいること。そして彼はこのまま「みんなの幸い」を探す旅がしたいと思っている。

幸いとは。この問いは本作品において重要なテーマの一つであり、何度も言及される。
ジョバンニもカムパネルラも、自分の幸せについては考えず、真に人の幸せを願っている。家族のため、友人のために、自分の命を燃やす。(こんな道徳的な考え、小学生の私は持ち合わせていなかったなあ)

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼やいてもかまわない。」「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。・・・「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」

この作品から「人のために生きよう。それがほんとうの幸せ」というメッセージを感じ取ったのだが、同時に少し違和感があった。真直ぐ素直に「人助けしよう!」と訴えているようには思えなかったのだ。「ほんとうにそれが幸せ?自分にとっても、人にとっても」と、最後まで自分自身に問い続けているような気がする。こんなふうに感じたのは、おそらくラストシーンのせい。夢から目覚めた後のくだりはカムパネルラを亡くした悲しみに染まっており、まだ前向きさや明るさは無いように私には見える(お父さんがもうすぐ帰ってくるだろうという知らせは喜ばしく前向きなものだが、カムパネルラパパの「どうしたのかなあ。・・・今日あたりもう着くころなんだが。船が遅れたんだな。」という言葉に不穏なものを感じてしまう)。ジョバンニは人のために命を賭したカムパネルラを銀河鉄道で見送った後も「ほんとうの幸い」の正体はまだ分からず、それを探すために生きていかなければいけない。「これこそが幸いだ」と決めつけるのではなく、ずっと幸いについて考えていく、何がほんとうの幸いなのか探していくことが人生だと、この作品は示しているのではないかと私は感じている。

*****

主人公ジョバンニの境遇や同級生たちの性格は学校やお祭りでの描写から掴めたし、銀河鉄道の車窓から見える景色も鮮やかで、夜空の旅の様子がありありと伝わってきた。しかし読後ストーリーを振り返ってみるとどこか漠然としており、ジョバンニたちが住む美しい町も、お祭りも、銀河鉄道も、全部が夢物語の空気を纏ってぼんやり発光している。その終わりだけが、不思議と現実の重みをもって目の前に提示されるような印象の作品だった。これから私の生活には「ほんとうの幸い」という言葉が呪いのようについて回るだろうと思う。



■楽曲 「カムパネルラ」
敬愛する米津玄師氏の美しい曲。
この曲の歌い手は「どちらかというとザネリ」だと、氏はインタビューの中で話している。ザネリはクラスのいじめっこだ。カムパネルラに対して悪意はなかったものの、彼の死の原因を作ってしまった。友人の死に触れたいじめっこの少年は、そのあとどのように年を取っていくのだろうか。その想像の結晶が、「カムパネルラ」だと思う。

幼さや分別のなさ故、ジョバンニを不当にからかってきたザネリ。そんな粗雑なガキ大将も、過失とはいえ自分が原因で友人が亡くなったら心に深い深い傷を負うだろう。優しい人が死んでしまった。自分は助かるべき人間だったのか。生きるのは自分で良かったのか。そこでようやく自分自信を顧みて、今までの行いを反省する。しかしいくら悔いてもカムパネルラは帰ってこないし、変わった自分を見てもらうこともできない。

この街は変わり続ける 計らずも君を残して
真昼の海で眠る月光虫 戻らないあの日に想いを巡らす
オルガンの音色で踊るスタチュー 時間だけ通り過ぎていく


今まで人を傷つけてばかりで、これからもきっと、気を付けたって傷つけてしまう。罪を重ねるばかりだけど、生きていかなければいけない。そしてカムパネルラの代わりに「ほんとうの幸い」を探していかなければいけない。

あの人の言う通り 私の手は汚れていくのでしょう
追い風に翻り わたしはまだ生きていくでしょう
終わる日まで寄り添うように 君を憶えていたい

あの人の言う通り いつになれど癒えない傷があるでしょう
黄昏を振り返りその度過ちを知るでしょう
君がいない日々は続く しじまの中独り


人に傷つけられることも、自分の不甲斐なさに傷つくこともあって、傷は歳を重ねるごとにどんどん増えていく。それは仕方のないこと、輝いているものに近づけば、その傷も光を反射して美しく光る。

光を受け止めて 跳ね返り輝くクリスタル
君がつけた傷も 輝きのそのひとつ


自分がいつザネリになるか分からない。人を傷つけないよう思慮深くあることで防げることも多いだろうが、自分の想像の及ばなかったところで大きな過ちを犯してしまうこともあるだろう。それでも、傷を重ねて研磨され、より繊細に輝いて生きていく。曲中に表れているこの決意が、原作の空気感を丁寧に引き継ぎながらもその先の物語を豊かに描いていて素敵だ。

 

*****

冒頭でも書いたように、「銀河鉄道の夜」は読み手によって解釈が異なりやすく、その人の価値観や性格が解釈に表れる。「カムパネルラ」をどう聴き、どの箇所に重心があると感じるかも人によって違うのだろう。
この感想文から私の人格が読まれてしまうのかもしれないと思うと少し恥ずかしい。

 

 

にごりえ_読書感想文

はじめての樋口一葉
大学時代お世話になった教授の娘さんは樋口一葉からとって「一葉ちゃん」と名付けられたそうで、この話を聞いて以来ずっと彼女の作品を読んでみたいと思っていた。教授の専攻は国文学。文学部に入学した身で恥ずかしいが、彼の授業を受けて初めて古典文学の面白さに気づき、彼の京大時代のお話もいつも笑えて、毎週の楽しみだった。今年の初め、社会人向けのクラスをやっているからよかったらおいでとお声がけいただいたが、心底残念なことに仕事の時間と被っていて参加できず。もう仕事辞めちまって大学に戻るかと本気で考えている今日この頃この一年二年。

一葉の作品はコンパクトだ。ストーリー自体も面白く、ぐんぐん読めるのに、1作品 数十ページにまとまっているので一気読みで楽しめる。ただ、文語で書かれているので一ページ目を見たときは「おっとこれは難しいぞ、また今度時間のある時ゆっくり読むか…」と後回しにしてしまおうか迷った。しかし3ページも進めばコツがつかめる。そのままするするとゴールできた。文に慣れるまでのもどかしさを耐え抜けば、樋口一葉が読めるカッコイイ人になれるのだと学んだ。

 

さてさて、今回読んだのはにごりえ
あらすじは特に書きません。1分で内容がわかるように書いてくれている記事がごまんとあるのでね。私は登場人物の性格や感情、そして詩趣に注目して、自分なりの解釈をここに記録していこうと思う。

まずは主人公のお力について。
初見での彼女に対する印象は、「バッドエンドのシンデレラ」。美しい外見に生まれたが、生まれの不運により惨めな生活を送ってきた。しかし生来の美貌と愛嬌を武器に上客からの寵愛を獲得し、さあこれから大出世して幸せな人生を手に入れるぞというときに、古い客の恨みか何かによって-されてしまう。一見すると、お力は見た目も心も綺麗な女性。生まれも育ちも人生の終わりも悲惨で、王子様との結婚が叶わなかった悲しいシンデレラである。しかし二度読むと見え方が違ってくる。彼女は"謙虚で心優しい"シンデレラではなく、営業上手な茶屋の娘だ。

お力は、男女関係なく人を魅了するのに長けている。彼女の性格を率直に表すと、天性の人たらし、といったところか。同僚の高ちゃんのようにお客に対して積極的なわけではなく、あっさりとした、引き際を弁えているクールな女性。帰ろうとするお客は引き留めない。お客の財布からお金を抜き出して「店のみんなで分けて」と勝手にばら撒きふざけた直後、「私はお金は要らないから、貴方の名刺が欲しい」ときざなことを言ったりもする。甘すぎない態度と時折見せる破天荒さ、明るさの陰に見え隠れする悲壮感、朗らかな聡明さがまた魅力的で、お客はホイホイ釣られてしまう。茶屋での仕事は彼女にとって天職だろう。

お力のもとに通う上客、結城も指摘したように、彼女は冗談の端々に教養と頭の回転の速さを見せる。お力のそういった振る舞いは「実は良家出身のお嬢様で、何か事情があってこのようなところで働かざるを得ない状況になっているんじゃないか」と、悲劇のヒロイン感を醸し出している。本人は口では「私は下品な生まれ」の一点張りで、ドラマチックを装おうとはしないが、決して素性を明かそうともしない。すでに数日通っている結城に対しても、「今日は気分じゃないから話したくない、私はそういう我儘な女なんです」と自分の生まれ育ちの話は先延ばしにする。美人の我儘にはある種の魅力があることを本人は分かっていてやっているのだろうか。ミステリアスなお力に、結城も読者も惹きこまれていく。

商売中は明るく可愛くふるまっているものの、お力の本心はいたってドライである。
昔からの馴染みの客、源さんに対して、今はもうお金のない彼に興味は無いのに、切手が二枚も要る量の手紙を出したりと余計な愛想を見せる。分厚い手紙を出すお力を見た同僚は「源さんとお力は本当に想い合っているんだから、一緒になってしまいなよ」と言うのだが、当人は「私はどうもあんな奴は虫が好かないから」と冷淡なコメント。美女からの手紙を受け取った源さんは、いくらお金が無くても彼女に会いに行かざるを得ない。しかしいざお店にやってくると、お力は彼を「持病」呼ばわりして逃げ隠れてしまう。
こんなお力の傍若無人な行動も、源さん側から見たら鬼の所業にも見えようが、本人は悪気があってやっているわけではなさそうだ。愛嬌を見せるのがうまい性格であり、そして商売柄そのような態度が必要だから、振り回される男の気持ちなど気にせず自分の思うがままの言動をしているように見える。この悪気のない我儘さが災いして、源さんの家庭は崩壊、自暴自棄になった源さんに切られてお力は亡くなった、というのが本作に対する私の解釈である。

お力の我儘は、源さんの子どもに寄せる感情と態度にも表れている。
妻子持ちの源さんをたぶらかし、彼の家族には嫌われて当然のことをしているのだけれど、お力は決して彼の家庭を壊したいとか、源さんを自分のものにしたいとか考えていたわけではない。ただ、興味のないものへの対応が雑なのだ。気分次第で行動してしまい、それが許されてきたから、暇つぶし程度に源さんに手紙を出してみたり、彼の子どもにカステラを買ってあげたりしてしまう。源さんの奥さんの気持ちに配慮せずに。
自分の何気ない行動で彼の家族を不幸な目に遭わせておきながら、子どもは可愛いと思うから嫌われるのは辛いと思っている。こんな商売をやらなければならぬ運命だから、子どもに鬼と言われてしまう人生を送っているのだと嘆くお力。仕事を辞めようと思えば辞められるはずだし、お金の無くなった源さんにちょっかいを出すのはもうきっぱりやめてしまえばよかったのだが、ずるずると中途半端に付き合ってしまうのである。

お力に対して少し厳しく書いてきてしまったが、彼女は彼女の生まれ育ちが不運なものであったことは間違いない。お米を買うのにも一苦労なほどの貧しい家に生まれ、貧しいということがどれだけ人生の幅を狭めるかを、自分の親を見て感じ取って来た。だから、どうにかしてこの貧乏の血筋を断たなければいけない。出世しなければいけない。
茶屋での仕事を続けていれば、良い身分の殿方に身請けしてもらえるチャンスがある。でも、茶屋での仕事は辛い。こんなにつまらなく情けない時間が一生続くのかと思うと嫌になる。

「ああ嫌だ嫌だ、どうしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時まで私は止められてゐるのかしら、これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ」

しかし仕事を辞めるにしても、それはどこかに嫁に行って身を固める事を意味するから、自分の身の置き場を決めるにはまだ早すぎる、もうちょっと様子を見て、よりいい男が現れるのを待とう、とお力は無意識のうちに考えていたのかもしれない。もう少し早く「このあたりで貰われておくか」と決めてしまっていれば、世に一般の奥さんになって、自分の可愛い子を持ち、普通の暮らしができていたかもしれない。でも、これも「かもしれない」でしかなく、普通の暮らしが物足りなくて茶屋に逆戻りという可能性だってある。お力はすでに諦めどころを見失って、何が正解かどんどん分からなくなっていっている。

そんな中、ここで決めてしまってもいいと思えるほどの相手が見つかる。しかし彼女の人生に一筋の希望が見えた途端、源さんと無理心中。今までの苦労も悩みも、山に漂う人魂と化した。

 

この作品は「明治時代の低・中流階級の人々の貧しい暮らしと、その生活苦を描いたもの」と紹介されていることがある。勿論貧しい人々の苦しみを題材に書いているのだが、作者が伝えたかったのは「当時の世間の人々の貧しく可哀想な暮らし」だったのだろうか。
私はまだ一葉についての文献を充分読めていないのであくまで個人的な感想だが、この作品が伝えているのは「それぞれの人間の行動が絡まる様子」だと思う。ただ「茶屋娘の悲劇的な生活」を書くのなら、その娘の我儘さを描く必要はない。貧苦に対して読者の同情を得るには、シンデレラのような心優しい可憐な女の子として書くのが効果的だろう。しかし、「にごりえ」の登場人物にそんな物語チックな性格の持ち主はいない。各登場人物の苦労への対処(何かで紛らわす、耐え忍ぶ…)が絡まり合って、折り合いのつかない状況になっていく。この人間模様を書くこと=純文学作品を作ることが一葉の目的だったのではないかと、私は感じた。

・・・

 

一葉作品が評価されているポイントのひとつである「詩趣」について。
本作で感じられる「詩趣」の中で私が特に好きなのは、妻から贅沢を咎められたときの源さんの様子を表した以下の表現。

「ころりと横になって胸のあたりをはたはたと打あふぐ、蚊遣の烟にむせばぬまでも思ひにもえて身の暑げなり。」

家族をほったらかし愛人に入れ込んでいる源さんは、妻から小言を言われ、その様子を見ている子どもからも気を遣われている。家長としての体裁は保とうと涼しい顔でごろごろしているが、心の内ではお力を諦めきれない情けなさと家族への責任で、身が燃えるような思いをしている。こんな様子が詩情たっぷりに伝わってくる一文。

・・・

 

お力の無邪気さと不運な身の上が、本人の意思とは違う方向に彼女たちを連れて行ってしまう様が物悲しい作品だった。

5000円札から樋口一葉がいなくなってしまうまであと2年もない。その間に、ぜひとも一葉作品すべて読破したい。

 

ペンギン・ハイウェイ_読書感想文

夏の旅行のお供にぴったりな本は何か。ペンギン・ハイウェイだ!

旅行には本が要る。
敬愛する森見氏のお子は私の旅行をより一層明るく楽しいものにしてくれること間違いなしと信じている。彼の作品群の中で最も夏を感じるものを注文、ペンギンを連れて行くに至った。本作は私の期待以上の働きをしてくれた。チャーミングな登場人物たちと大量のペンギンの癒し効果は、長野の清流にも勝る。
ネタバレ気にせず書くので未読の方はご注意ください。


主人公はコミカルなほど真面目な小学4年生、アオヤマくん。彼はビッグバン・セオリーのシェルドンを彷彿とさせる、非常な賢さと変態性を持っている。いわゆるギークなシェルドンとは異なり、少年の変態性は歯科医院のお姉さんのおっぱいに向く。なぜおっぱいは存在するのか、なぜお姉さんは魅力的なのか。お姉さんの謎は、その美貌だけではない。彼女はペンギンを作れるのだ。真面目なアオヤマ少年は、これらの謎を解明するために「お姉さん研究」なるものを始める。二人の友人、内気なウチダくんとお転婆なハマモトさんと一緒に、不思議な現象が次々に起こる町を探検しながら研究を進めていく。「お姉さん」「草原に浮かぶ海」「町を巡回する川」「世界の果て」。お父さんにアドバイスをもらいながら研究していくと、バラバラだったピースはひとつの真理に吸い寄せられ、少年は残酷な真実を発見してしまう。

読み終わってはじめて気付いたのだが、これは少年の初恋の話である。
本作のメインストーリーは、お姉さんの謎というファンタジーと少年少女のじゃれあいだ。その中に恋愛要素も入ってはいるが、「恋愛」というよりは「気になる」とか「好き!」という感じ。大人びているとはいえ、小学校四年生はまだおこちゃまだ。恋心を「結婚相手はもう決めている」と表現するのが愛らしく、ちょっとふざけているようにも感じる。しかし最後の最後に、本気でお姉さんを好きだった少年の切ない心の内が素直に明かされる。それまで「アオヤマくんかわいい、ペンギンかわいい」というライトな感情だったのが、最後の数行で急に胸を締め付けられ、人間の感情はこんなに急カーブを切れるものなのかというくらい突然に涙が湧いた。アオヤマくんはお姉さんに恋をして、そしてお別れをして、着実にペンギン・ハイウェイをよちよちと進んでいる。

本作では、「研究」という行為の意味深さも、可愛らしい少年の冒険を通してマイルドに表現されている。
研究とは、対象物を論理的に説明できるようにするための活動である。研究の目的は、謎の解明にある。目的を達するために、時には対象物を分解したり、醜いところを見なければならないこともある。謎の正体に対して、「思っていたのと違う」と感じることもあるだろう。
アオヤマくんのお父さんは、「世界には解決しないほうがいい問題もある」「もし息子が取り組んでいるのがそういう問題であったら、息子はたいへん傷つくことになる。」と話す。お父さんは息子の研究を応援しているけれども、親としてはこどもが幸せに生きていくことが何よりの願いであるから、無機質な現実にぶち当たって悲しむようなことはあまりさせたくないのだろう。
謎は、神秘である。神秘には神や霊的なものだけでなく、ペンギンや、人間の存在意義、世界の果て、そして恋も当てはまる。神秘にはロマンがあり、そこに魅力や美を見出すことができる。
一方
研究は、神秘を壊してしまうものである。人間に存在意義なんてものはなくて、遺伝子に組み込まれている本能に従って繁殖する生き物だ。お姉さんの綺麗な顔も、遺伝子が偶然そのように組み合わさって造形されたものでしかない。恋も、おっぱいの魅力も、脳が作り出した幻想だ…
こんな現実は、知らない・直視しない方が幸せに生きていける。
でも、知っていることと信じることは別だということを、アオヤマくんは分かっている。だからお姉さんへの恋心を論理的に説明することは絶対にできなかったし、最後も「大好きだった」「会いたい」という簡潔で素直な言葉を使って想いを吐露している。将来偉い大人になるアオヤマ少年は、もう泣かないし、辛く冷たい現実にも負けないのだ。

 

この作品のチャームポイントは、なんといっても魅力的な登場人物。
森見氏のキャラクター作成センスはばつぐんだ。「夜は短し歩けよ乙女」の黒髪の乙女、「四畳半シリーズ」の小津、「太陽の塔」の飾磨が私のお気に入りキャラクターであるが、ここに今回アオヤマくんを追加することになった。
アオヤマくんの魅力その壱、話し方。これは森見作品に共通することだが、上品な言葉遣いと優しい言葉選びが、読者に安心感と幸福感を与える。日本語の勉強はもちろん、「素敵な人間になるための勉強」にもなっているといつも思う。
アオヤマくんの魅力その弐、怒らないところ。きっとアオヤマくんのお父さんも怒らない人なのだろう。アオヤマくんは、優しいから怒らないのではない。すごく楽観的で寛容というわけでもない。普通は怒るようなことがあっても、彼は自分にとってプラスになることをうまく探し出したり、冷静であるが故の怒らない人であるとわかる。そんな少年らしからぬ、媚びないアオヤマくんが私は好きだ。

 

ペンギン・ハイウェイは、世界の果てに続いているらしい。世界の果ては、すべての限界。それを見るのは悲しいことかもしれないとお父さんは言う。でもみんなでよちよちと歩いていって、最後はみんな同じところでぬくぬくするのだ。お姉さんもそこにいるかもしれない。立派なおじいさんになった少年が、綺麗なままのお姉さんに、いつかちゃんと会えますように。

 

海と毒薬_読書感想文

遠藤周作氏の海と毒薬を読み終えた。
二周した。

これは祖父母宅の本棚で見つけて、勝手にもらってきたものである。
砂埃や日光に長年晒されてきた「ベルばら」や「タッチ」「マカロニほうれん荘」など昭和の名作漫画の中に、なぜか挟まっていた華奢な本。

短い作品ではあったが、読むのに時間がかかり、長く長く感じた。特に手術のシーン。その場に立ち会っているかのような錯覚に陥る、緊迫感が直に伝わってくる文章に体力を消耗させられた。

 

さて、本作の内容についての感想。
巻末の解説には「この作品は宗教と、人間(日本人)の良心をテーマに作られたものである」とあった。
読書一周目で、私は人間の善意が主題になっていることと、そこに宗教が関係していることは読み取ったが、
「良心を持たない者」の対象が日本人=宗教を持たない人間に限定されていることには気が付かなかった。
人種や文化に関わらず人間にはこういう感覚の者もいて、戦争という大きなストレスの下では特に判断力が鈍るものだということを、サスペンスの要素も織り交ぜながら純文学として成形したのだと思っていた。巻末解説を踏まえて再読し、今まであまり気にしてこなかった宗教というものの役割や、人間の良心とはどういうものなのか(先天的?後天的?)について思考を巡らせた。

この作品の主な登場人物たち(勝呂・戸田・看護婦)は皆非人道的な犯罪に関与した者たちだが、情という機能が備わっていないわけではない。

勝呂は本能的な良心を持っている人である。
しかし善いこと(正しいこと)と悪いことの違いを明確には線引きできない。ただ幼いころから自然と道徳や美しいことを感知することはできた。しかし権力争いに患者を利用することや人間の命ではなく効率を優先することなどおよそ倫理的とは言えない行為が横行する職場で彼は疲弊し、人としてやっていいことと悪いことが判別できなくなってくる。違和感だけはずっとあるのだが、その正体を説明できないので、無抵抗のままただ流されてゆく。

戸田は自分には良心がないと、幼いころから自覚していた。
だから良心の呵責というものを経験して自分は善い子にもなれるのだということを確かめたいと時々考えては、やはり人間として持っているべき何かが欠けている自分を眺めて、不思議なつくりをしているなと思うのである。そんな彼は悪ではなくて、善の性質が弱いというのが適当な気がする。彼は荒れる海を陸から観察しているようなポジションだ。勝呂のように悪い流れに抗う心も特に起きなかったのだろうと思う。

看護婦は、私が個人的に一番気になる人物である。
彼女はこの作品では悪人側だが、上の二人と同じように生まれつきの悪人という描かれ方はしていない。彼女は少しのコンプレックスを抱えた、ごく普通の女だった。彼女の場合、結婚以降度重なった不運の数々が彼女をそうさせたように思えてならないのだ。彼女は運命(機会)に流されやすいだけの人物というわけではなく、自分の意志や欲を明確に持っており、機会に直面するたびに自分の利益になるかという指標のもと冷静に判断を下している。自分の利益のためなら多少の道徳を犯すことも厭わない、俗っぽい女。海の流れに身を委ね、海を構成する者。正に聖女ヒルダとは真逆の性格。しかし簡単にヒルダと比較して、看護婦を悪人だと断言はできない。勿論善人とも言えないが。自分に無い、夫、子供、石鹸(富)を持つヒルダにどんな説教をされても、ただ可笑しく思うのみの彼女には同情できてしまう。

彼らに足りなかったのは、善の教育=宗教なのだろうか。宗教は「善」のテンプレートを用意してくれている。「善であるといいことがあり、逆に悪いことをすると自分に返ってくる」というシステム化されたわかりやすいルールを、宗教の教典や行事が教えてくれる。そして、神という存在が常に監視していることを学び、どんな場所でもルールを破らない習慣を身につけるのだ。戸田をはじめ、この作品に登場する日本人が怖がっているのは「世間」からの罰である。彼らにとっての神は世間であり、法である。世間・法と宗教の神との決定的な差は、死角があるかどうかだ。

苦しむ患者を安楽死させるために麻酔を持って行った看護婦に対し、ヒルダは「死ぬことがきまっても、殺す権利はだれもありませんよ。神さまがこわくないのですか。あなたは神さまの罰を信じないのですか」と詰問する。「神さまの罰」という言葉を使ったのは、宗教的な話をするためではなく、良心が痛まないのかということを効果的に伝えるためだったのかもしれない。しかし彼女がただ神への畏れのためだけに善行に尽くすのだとしたら、世間の目を怖れて善い子を演じる戸田はヒルダと本質的には変わらないのではないか。神の罰を怖れることは、世間からの罰を怖れることとあまり違いがないように思う。ほんとうに人のためを思って行動すること、人を助けること、その源の良心は、一体どこから来るのだろうか?

人間を安楽死させること、捕虜で人体実験すること、犯罪人を処刑すること、敵国の兵を撃つこと、街を爆破すること…どれも殺人であるが、何を優先するかによってはこれらの行為は正当化され、正しいこととして受け取られることがある。人の殺し合いが公然と行われる戦争というものが国を飲み込んでいた時代に、九州の一病院で行われたことに対して善悪を区別することはできたのだろうか。現代でも同じだ。何を優先するか=価値観によっては、ひとつの物事に対して全く違うリアクションが来ることもあるだろう。そんなとき、何をもって善悪を判断すればいいのか。ヒルダが翳しているような道徳も今や価値観のひとつでしかなく、絶対的な指標とはなり得ない。結局は個人が自分の心と頭で判断しないといけないのだろう。

近年、これまでは公表することをタブーとされてきたことや、マイノリティーな嗜好、生活スタイルが受け入れられるようになってきて、その分だけの善悪の価値観が認められるようになってきたと思う。そんな中で、普遍的な善悪をマニュアル化することは無理なのではないか。少年の健康的な精神を育むのに大きな役割を持つ少年漫画も、昨今はヒーローと悪役の図が多様化しており、その境目もどんどん曖昧になっているように感じる。「海と毒薬」を読んでいて、とある有名漫画家の「私は善悪の判断に自信がないので」という言葉を思い出した。

善悪を自分の頭で考えないといけない時代に、頼りない、人間の良き心は作用してくれるでしょうか。

 

人間_読書感想文

ずっと気になっていた又吉直樹氏の「人間」。
買ってまだ読んでいない4冊くらいの小説と1冊の漫画、ページをパラパラしただけの3冊の雑誌を差し置いて読み切った。

ネタバレ気にせず感想書くので、未読の方はご注意を。

4章からなる本作は、
第一章「星月夜」で芸術分野での活躍を目指す人々とのハウス生活の思い出が、
第二章「霞」で主人公の現在とハウスの元住人「ナカノタイチ」が引き起こした騒動が、
第三章「影島道夫」でハウスの元住人でお笑い芸人になった影島との会話が、
第四章「人間」で自分のルーツである沖縄に帰り血縁者やご近所さんたちと関わる様子が
描かれている。

前半は主人公、永山の焦燥やどうしようもない苦しみが自分に感染するようで、読んでいると呼吸が浅くなるような感覚があった。それでも読み進めてしまったのは、私にもスノードームに渦を作って自ら作り出した混沌を痛い気持ちで眺めてしまうサディスティックな好奇心があるからだろうか。

永山は独自性を追い求めるが故に、他人の目に敏感になる。
自分がどう見られているかを強く意識しすぎて、行動を制限されているようだ。「こんなこと言ったらかっこつけと思われるから言わない」「これはパクリみたいなものだからダサい」と、自分が思う「面白い」「お洒落」に対して忠実だった。これはもはや俯瞰ではなく、主観で自分自身を観察していたようなものだ。「凡人が自分の才能を信じるのは罪」と言いながら、やはり自分の感性に一番信頼を置いている。

彼には自分の中に、確固とした良し悪しの基準を持っていたように思える。
これはひとりで考える時間をたくさん持ってしまった人間の性なのかもしれない。自分なりの正義を持っていて、「しょうもない」「どうでもいい」と言いつつも、実は他人に自分流の正義に沿った行動を期待していたから苦しかったのではないか。
ナカノタイチに対して見せた過剰な苛立ちの要因の一部は、自分は決められた(というより自分で決めた)ルールを守って活動しているにもかかわらず、彼は無法な振る舞いをして許されていることだろう。無抵抗者にむち打ち強者に媚びへつらう、人の意見を自分のもののように話し得意顔をする。それでも非難を受けず反省もしない彼の姿は、永山には罰を免れている犯罪者のように見えたのかもしれない。「社会のルールを守らない犯罪者を裁くのは正義」という感覚は、第三章で起きたタレントの自殺事件の間接的なトリガーとなった誹謗中傷を彼女に浴びせた人々だけでなく、程度は違えど永山にも、私自身にもあるのだろう。

第二章で登場するカスミは「周りと違うことをすると怒られる。向上心を持たないで自分のペースでやっていると苛々される。私はただ歌うのが好きなだけなのに」と、自然体では普通の枠に収まれずそれによって人から疎まれることを嘆いている。カスミに苛々する人は、自分が縛られている「人間たるもの社会に利益を齎す存在であらねばならない」という暗黙のルールを無視するかのような自由さを持ち、鈍感故に苦しみを感じなさそうな彼女を見ていると、フラストレーションが溜まるのだろう。「優しさや賢さ故の寛容さは許せるけど、鈍感故の寛容さや自由さは許せない」みたいな考えは、共感できるところもある一方、危険な考え方であると心底感じている。

永山は普段はタレントへの誹謗中傷などという暴力的なことをする人間ではなさそうだが、自分から見てルール違反だと思う人に対していらつき「面白くない」と一蹴する態度は、ストレスが極限まで来てふっと魔が差した時に、衝動で口にしてしまった言葉で人を深く傷つけるなど、他人の命を脅かすようなことをしてしまう危険性を孕んでいるように思える。その自分の中に在る危うさに永山自身気づいていて、でもどうやったって自分が思う「良い」に当てはまらない人への軽蔑や無法者への苛立ちは発生するし、本当の意味で他人を放っておくことができないことに苦しんでいるように見える。

上記に加え、もう一点、永山の苦悩の中で気になったものがある。それは「人の成功によって傷つくこと」だ。
人を傷つけることを目標に成功を目指す人、成功した人はそういないのは分かっている。しかし人の成功によって、確実に傷ついている自分がいる。成功者が悪いなんていう道理はないし、人のことを恨む時間がもったいないのもわかっているが、自分は何も悪いことをしていないのに不意に殴られたような衝撃に、うまく対処できない。間違いなく傷ついている自分を眺めて、また他人への苛立ちを募らせる。

私個人の場合、関連の資格を取った分給料が上がるシステムになっているので仕事において永山のような状態になることはないが、運や世渡り技術の高さが絡んでくる分野においては彼に同情する部分もあり、一方彼とは違い様々なことを初手から諦めている自分にも気づかされた。ある年齢を超えたとき、私からは永山のような一生懸命さが消えたんだなと思った。

 

前半パートの感想文は作者に申し訳なくなるくらい暗くなってしまったが、
大丈夫、後半、特に沖縄編で憑き物が落ちます。

2章までの大半が鬱屈とした主人公のどうしようもない不幸話だったが、298ページ(単行本)でそれがコメディーに転じたのが爽快だった。読みながら、つい微笑んでしまった。
主人公の馬鹿真面目さが、なんでもうまくやれる天才には不可能なお笑いを生み出していると影島は語る。不器用さも人間の味、お前は面白いやつなんだと、そっと永山の存在を肯定してくれる。

4章「人間」で印象的なのは、含みなく嫌味なく話す母親や宴会に集う人々。そういう人たちに囲まれる主人公を思うと、こちらも妙に安心する。日常とは離れた特別な会に少し緊張しながらも、親戚に囲まれおばあに「家族、必要だよ!」と背を押すような言葉をかけられている主人公の姿を見て、素敵な家族がいてよかったね、と言いたくなる。

 

一匹狼、自分の道を行く、人と馴れ合わない。でも本当は人間に興味深々で、人にかけた期待を何度も裏切られて、それでも人との繋がりを断つことはしない…そんな苦い日々に偶然生まれた温かい交流が、たとえそれがその一瞬のものでも、永山に安心感をもたらす。

人からもらった温もりを糧に、これから彼はとても優しい人になっていくんじゃないか。

又吉氏の小説にバッドエンドはないと信じている。

きつねのはなし_第四編 考察

森見登美彦氏「きつねのはなし」第四編、「水神」の考察。

ネタバレもりもりでお送りします。

 

【水神】

祖父の葬儀のため、京都の屋敷に集まった樋口家の一族。大学生の主人公は父と二人の叔父たちと一緒にお酒を飲みながら、祖父からあるものを持ってくるように依頼されたという古道具屋「芳蓮堂」が来るのを待った。祖父にまつわる思い出話の中で、この屋敷に住む不穏な影の存在が浮かび上がってくる。丑三つ時に到着した芳蓮堂が持ってきたのは「100年前の琵琶湖の水」。この水をきっかけに、屋敷に住む何かが暴れ出す…

 

青緑色の水で満たされた硝子張りの中庭とその中に佇む小さな祠、その後ろで茂る背の高い竹林、ゆらゆらと弱い光が漂う廊下が映像として頭に残っている。不気味な物語の中で、日本家屋の美しさが映える小説だった。

 

京都の鹿ケ谷に立派なお屋敷を所有する樋口家。この一家には、祖父以外誰もその正体を知らない家宝が受け継がれてきたという。そんな謎めいた家宝について、叔父たちは芳蓮堂が持ってくる何かだと思い込み浮かれている。しかし私が推測するに、家宝とは祖父がその身に宿していたケモノ、龍だったのではないか。

祖父だけが家宝の正体を知っていて、周囲が「うちには金銀財宝が…!」などと勝手な憶測を飛ばすのを面白がっていた。「家宝」と聞いて財宝の類を想像するのは決して不自然ではない。それを笑うということは、その推論は全くの見当はずれで、実際はモノではないもっと別の何かだからなのかもしれない。

祖父は「器が足りない」という理由で息子たちに家宝を継がせる気はなかったそうだ。厳格で周囲と馴れ合うことのなかった彼は、親族に対しても冷たかった。しかし例外がただ一人。主人公だけは明らかにお気に入りとして特別扱いしていた。介護の意味も含めて同居しようという親族からの打診を悉くはねつけたにも関わらず、主人公には学費を出してやるから京都に来い、一緒に屋敷に住めと言った。主人公への甘々な態度は、彼に家宝を継がせたいと思っていたからではないか。

家宝を継ぐ資格。それは酒への耐性だと推理する。祖父の三人の息子たちは皆酒に弱い。葬式の夜、主人公の父も叔父二人も酔っぱらってふやけていた。一方樋口家の初代が琵琶湖疎水建設中に掘り起こしたという家宝を継いできた者たちは、皆酒豪だった。そして主人公も、父たちと酒を飲み語らっている場面でしれっと酒豪の素質を見せている。この酒への耐性が、家宝を継ぐのに必要な資質だったのかもしれない。

酒に飲まれない強さ、それは家宝である龍に精神を飲まれない強さを示していると推す。初代が湿った隧道で家宝を掘り起こした時、どうしたか。彼はそれ飲み込んだのではないか。疎水建設によって掘り起こしてしまった水神を、彼は飲み込み、自分の体に封じ込めた。そしてその荒ぶる神は家宝として3代にわたって引き継がれてきた。彼らは体や精神が老衰によって弱ってくると、自身に巣食うケモノに乗っ取られたようになり、
目つきは人間のものと思えないほど鋭く、奇怪な行動をとるようになる。

この危険な家宝は、100年をもって樋口家を離れる。主人公が跡を継がなかったために、祖父の代で龍は解放され、しばらくは屋敷の中を彷徨った。祖父の肉体の死後、龍は祖父の体を使って芳蓮堂に「100年前の琵琶湖の水」を持ってくるように連絡する。祖父は衰弱してからというもの水ばかり飲み、水を口にいれては「まずい」と憤怒していた。彼、つまり龍が欲していたのは琵琶湖の原水、「おいしい水」であった。芳蓮堂が持ってきた水を飲みほした龍は力を取り戻し、琵琶湖を目指して疎水を逆流するも、目的地には至らなかった…

というのが、私の妄想解釈である。

主人公の祖母にあたる人物、花江さんについて。彼女は、神の逆鱗に触れたことにより水に沈んだ神社の伝説が残る、琵琶湖近くの村出身。彼女の頬にある傷は、この伝説と何か関係があるように思える。また、曾祖父が開いた大宴会に来ていたという「顔に白布を巻き付けた芸妓」も、花江さんと関連して非常に気になる存在だ。(顔に白布を巻く伝統か何かがあったりするのだろうかと思い調べてみたが、そんなものはないようだったので、この芸妓さんは顔に傷を負っていたために白布を巻いていたのかもしれない)彼女がもし本当に荒ぶる水神を治めるための人魚だったとしたら、主人公は人魚のクオーターか…と余計なことを考えてしまった。

この作品の鍵のひとつ、大宴会については、全く正体がわからなかった。樋口家初代、曾祖父、祖父と三代にわたって「死神」をもてなす大宴会が開かれ、その後彼らは皆不審な行動をとるようになったという。死神とは何のことだったのか。龍のことか、それとも別のケモノなのか・・・



森見登美彦氏の「きつねのはなし」を各編ごとに考察してきたが、こういった謎解きは氏の想定にそぐわないかもしれない。京都の不思議をそのまま受け容れることも、この作品の良い読み方のひとつだろう。
私は不思議の解剖を試みるという無謀なことをしてしまったが、これはこれで楽しかったのだ。きつねのはなしは、不思議世界の探索という、私にとっては新しい読書体験を与えてくれた作品になった。

 

きつねのはなし_第三編 考察

森見登美彦氏「きつねのはなし」第三編、「魔」の考察。

引き続きネタバレもりもりのため、未読の方はご注意を。


【魔】
家庭教師のアルバイトをする大学生の周りで頻発する通り魔事件。京都の暗い小路をうろつく魔の正体が明らかになっていくお話。


本話は「きつねのはなし」の中で一番明快に話が読めた気がする。仕掛けの面白さと、風景・人物描写の美しさの両面を楽しむことができ、読了後充実感が満ち満ちた。


夜道で人を襲う通り魔の正体は、ケモノ=雷獣に憑りつかれた人物であると私は推測する。ケモノに憑りつかれた魔は毎晩人を襲うという訳ではなく、何かしらのトリガーがある・または襲う標的が定まっているようだ。トリガーとして考えられるのは、雷。ケモノの正体が「雷獣」であることと、ケモノに憑かれた主人公の「魔」のスイッチが入り人を襲う日、決まって天気が荒れていることから、雷雲が京都の空に蟠る夜にケモノが暴れると考えられる。いや、雷ではなく雨かもしれない。作中で雨が降ると、そこはかとなく不吉な空気が垂れこめる。どちらにせよ、悪天候とケモノには何か関係がありそうだ。

通り魔の標的についての説には確証がないので、あくまでも一案として書いておく。ケモノに憑かれた人が襲うのは、個人的な確執がある人物なのかもしれない。明らかに恨んでいる相手でなくても、心のどこかで嫉妬や恨みのある人物を襲っている可能性がある。しかしケモノに憑かれたことのある秋月の話からすると、襲う標的や襲う理由を本人が全く自覚しておらず、「魔が差した」としか言えないような衝動に駆られた結果の行動だったようにも思える。

以下、主人公と秋月のやり取り。当時の攻撃性はどこへやら、秋月は無関心そうな態度をとっている。

「クーデターの話、聞いたよ」
「ああ、あれね。気に食わん先輩三人を叩き出したこと、あったね」

「でも君も、その先輩たちとは仲が悪かったんだろう」
秋月は首をかしげた。「俺はどうでも良かったなあ」と呟いた。
…(先輩たちへの恨みはなく、暴力をふるった理由もなぜだかわからないと、ぼんやりしたことばかり言う秋月)
「君は直也君のために、復讐したのかと思ってたけど」と私は呟いてみた。
「俺がそんなことするか」

 

直也の弟、修二は、兄が高校の剣道部を一時期休んでいたことについて「意地の悪い上級生たちを退部させようとした兄が、夜道でその報復を受けた。この時、しばらく剣道ができなくなるほど兄は痛めつけられた」と話している。この事件は最後まで特に深堀されることもなく、「剣道部の先輩とのいざこざ」ということで終わる。しかし上で引用した秋月の発言から、直也を襲ったのは実は秋月ではないかと私は思っている。

以下私の妄想解釈。


中学三年の時に夏尾から引き離したケモノを、以来秋月はその身に負っていた。

彼の喧嘩道楽は、中学の終わりごろから始まったものだ。…「ま、最近はあいつも喧嘩しないけどな」

ケモノによって荒ぶる秋月の様子を、事情を知らない者は「喧嘩道楽に耽っている」と見ていたようだ。しかし彼に憑くケモノの力はどんどん大きくなっていき、喧嘩では済まないような事件を起こすほどの悪意・衝動を抱えるようになった。そして彼は親しい友人である直也を襲ってしまう。直也は秋月が豹変する原因を知っていたから、彼を責めることなく、真実を伏せた。その事件から間もなく、秋月は部活の先輩たちも襲う。
秋月の暴挙に危機感を覚えた直也と夏尾は、秋月から魔を祓おうと画策する。直也はまだ傷が癒えていなかったので、夏尾が一人で秋月に立ち向かい、彼を打ち伏せた。しかしケモノを殺すには至らず、逃がしてしまう。それ以来魔がとれた秋月は「人が変わったように」おとなしくなり、逃げたケモノは廃墟に身を隠すようになった。そこで新しい標的、主人公を見つけ、憑りついた・・・これが彼らに本当に起こっていたことなのではないか。

 

夏尾は高校生になっても男子と打ち合えるほど、剣道の腕がたつ。しかしケモノが憑いていた中学までは、もっと強かったのだろう。直也はケモノを「夏尾にとっては三本目の腕」だと言う。夏尾は剣道に適した強い体と精神力の持ち主で、その上にケモノという「魔」を宿していた。「魔」の働きで、人間離れした瞬発力と非情な判断力で圧倒的な強さを見せていたと推す。彼女は「魔」に飲まれることなくうまくコントロールし、その力を使いこなしていた。それは彼女の特別な強さ、肉体も精神も人並み以上に強かったからだと思われる。しかし剣道の腕前も月並み=精神も肉体も平凡な秋月には、ケモノを宥められるだけの力量は無かった。だからケモノによる衝動的な悪意に抗えず、直也たちを襲ってしまったのではないか。

 

強き黒髪の剣道女子高生、夏尾が魅力的な作品。昔ながらの酒店、木塀に挟まれた細い路地、暗闇の中白々と明かりを放つ自動販売機、笑うケモノと、趣深く、少し不気味な風景やアイコンが印象的だった。
実写化してほしいな。アニメ化もぜひ。