海と毒薬_読書感想文

遠藤周作氏の海と毒薬を読み終えた。
二周した。

これは祖父母宅の本棚で見つけて、勝手にもらってきたものである。
砂埃や日光に長年晒されてきた「ベルばら」や「タッチ」「マカロニほうれん荘」など昭和の名作漫画の中に、なぜか挟まっていた華奢な本。

短い作品ではあったが、読むのに時間がかかり、長く長く感じた。特に手術のシーン。その場に立ち会っているかのような錯覚に陥る、緊迫感が直に伝わってくる文章に体力を消耗させられた。

 

さて、本作の内容についての感想。
巻末の解説には「この作品は宗教と、人間(日本人)の良心をテーマに作られたものである」とあった。
読書一周目で、私は人間の善意が主題になっていることと、そこに宗教が関係していることは読み取ったが、
「良心を持たない者」の対象が日本人=宗教を持たない人間に限定されていることには気が付かなかった。
人種や文化に関わらず人間にはこういう感覚の者もいて、戦争という大きなストレスの下では特に判断力が鈍るものだということを、サスペンスの要素も織り交ぜながら純文学として成形したのだと思っていた。巻末解説を踏まえて再読し、今まであまり気にしてこなかった宗教というものの役割や、人間の良心とはどういうものなのか(先天的?後天的?)について思考を巡らせた。

この作品の主な登場人物たち(勝呂・戸田・看護婦)は皆非人道的な犯罪に関与した者たちだが、情という機能が備わっていないわけではない。

勝呂は本能的な良心を持っている人である。
しかし善いこと(正しいこと)と悪いことの違いを明確には線引きできない。ただ幼いころから自然と道徳や美しいことを感知することはできた。しかし権力争いに患者を利用することや人間の命ではなく効率を優先することなどおよそ倫理的とは言えない行為が横行する職場で彼は疲弊し、人としてやっていいことと悪いことが判別できなくなってくる。違和感だけはずっとあるのだが、その正体を説明できないので、無抵抗のままただ流されてゆく。

戸田は自分には良心がないと、幼いころから自覚していた。
だから良心の呵責というものを経験して自分は善い子にもなれるのだということを確かめたいと時々考えては、やはり人間として持っているべき何かが欠けている自分を眺めて、不思議なつくりをしているなと思うのである。そんな彼は悪ではなくて、善の性質が弱いというのが適当な気がする。彼は荒れる海を陸から観察しているようなポジションだ。勝呂のように悪い流れに抗う心も特に起きなかったのだろうと思う。

看護婦は、私が個人的に一番気になる人物である。
彼女はこの作品では悪人側だが、上の二人と同じように生まれつきの悪人という描かれ方はしていない。彼女は少しのコンプレックスを抱えた、ごく普通の女だった。彼女の場合、結婚以降度重なった不運の数々が彼女をそうさせたように思えてならないのだ。彼女は運命(機会)に流されやすいだけの人物というわけではなく、自分の意志や欲を明確に持っており、機会に直面するたびに自分の利益になるかという指標のもと冷静に判断を下している。自分の利益のためなら多少の道徳を犯すことも厭わない、俗っぽい女。海の流れに身を委ね、海を構成する者。正に聖女ヒルダとは真逆の性格。しかし簡単にヒルダと比較して、看護婦を悪人だと断言はできない。勿論善人とも言えないが。自分に無い、夫、子供、石鹸(富)を持つヒルダにどんな説教をされても、ただ可笑しく思うのみの彼女には同情できてしまう。

彼らに足りなかったのは、善の教育=宗教なのだろうか。宗教は「善」のテンプレートを用意してくれている。「善であるといいことがあり、逆に悪いことをすると自分に返ってくる」というシステム化されたわかりやすいルールを、宗教の教典や行事が教えてくれる。そして、神という存在が常に監視していることを学び、どんな場所でもルールを破らない習慣を身につけるのだ。戸田をはじめ、この作品に登場する日本人が怖がっているのは「世間」からの罰である。彼らにとっての神は世間であり、法である。世間・法と宗教の神との決定的な差は、死角があるかどうかだ。

苦しむ患者を安楽死させるために麻酔を持って行った看護婦に対し、ヒルダは「死ぬことがきまっても、殺す権利はだれもありませんよ。神さまがこわくないのですか。あなたは神さまの罰を信じないのですか」と詰問する。「神さまの罰」という言葉を使ったのは、宗教的な話をするためではなく、良心が痛まないのかということを効果的に伝えるためだったのかもしれない。しかし彼女がただ神への畏れのためだけに善行に尽くすのだとしたら、世間の目を怖れて善い子を演じる戸田はヒルダと本質的には変わらないのではないか。神の罰を怖れることは、世間からの罰を怖れることとあまり違いがないように思う。ほんとうに人のためを思って行動すること、人を助けること、その源の良心は、一体どこから来るのだろうか?

人間を安楽死させること、捕虜で人体実験すること、犯罪人を処刑すること、敵国の兵を撃つこと、街を爆破すること…どれも殺人であるが、何を優先するかによってはこれらの行為は正当化され、正しいこととして受け取られることがある。人の殺し合いが公然と行われる戦争というものが国を飲み込んでいた時代に、九州の一病院で行われたことに対して善悪を区別することはできたのだろうか。現代でも同じだ。何を優先するか=価値観によっては、ひとつの物事に対して全く違うリアクションが来ることもあるだろう。そんなとき、何をもって善悪を判断すればいいのか。ヒルダが翳しているような道徳も今や価値観のひとつでしかなく、絶対的な指標とはなり得ない。結局は個人が自分の心と頭で判断しないといけないのだろう。

近年、これまでは公表することをタブーとされてきたことや、マイノリティーな嗜好、生活スタイルが受け入れられるようになってきて、その分だけの善悪の価値観が認められるようになってきたと思う。そんな中で、普遍的な善悪をマニュアル化することは無理なのではないか。少年の健康的な精神を育むのに大きな役割を持つ少年漫画も、昨今はヒーローと悪役の図が多様化しており、その境目もどんどん曖昧になっているように感じる。「海と毒薬」を読んでいて、とある有名漫画家の「私は善悪の判断に自信がないので」という言葉を思い出した。

善悪を自分の頭で考えないといけない時代に、頼りない、人間の良き心は作用してくれるでしょうか。