きつねのはなし_第二編 考察

「きつねのはなし」、第二編の考察。

ネタバレもりもり。

 

【果実の中の龍】

 

不思議なタイトルだ。

このタイトルは、主人公・先輩・瑞穂さんの手を渡るあの龍の根付のことを指している。「果実の中の龍」の意味についてぱっと連想されるものはなかったのだが、熟考してみると、心地よい甘さの果実の中に空想の生物が生まれ住んでいるという先輩の心理を反映させたものなのだろうか、とか、この作品で一貫して描かれる「雨が降った時の甘い果実のような匂い」という雨天の様子を表した彫刻なのだろうか、とかふわふわとアイデアが浮かんでくる。あくまでもふわふわとしたものなので、どれにも確信はない。もしかしたら意味などないのかもしれない。

 

 

さあ物語へ。

大学の研究会で知り合った先輩が所有する四畳半の「図書室」で、彼の冒険譚のような人生を聴く日々を送っていた主人公だが、先輩の彼女、瑞穂さんの先輩への態度が時々曇ることに気づき、その裏にある真実と対面するというお話。

この作品を読んでいて、私自身読書する人として、こころがじんわり痛むように感じた。
彼は自分を客観的に観察した結果生まれたキャラクターを使って物語を創作し、主人公に語って聞かせる。自分が空想に溺れていること、そしてその原因を自覚していることが、先輩に潜む真実の哀愁を煽る。しかし読書や空想を止めれば万事解決というわけではない。先輩の抱える問題の核は、自己のつまらなさである。現実で何も有益な活動ができない自分が恥ずかしい。だから本を読み、他人のおもしろい経験や知識を取り入れる。そうすると、意識せずとも自分の中の世界は膨らんでいく。その大半は空想・架空・嘘と呼ばれるものでできている。
彼はただおもしろくありたかっただけなのだ。
つまらない日々を送る者が、おもしろい人間になろうとする。
それは人生の創作を意味していた。人からおもしろいと思われたいと、見栄を張り、害のない嘘をつくことで、孤立していく切なさ。先輩への同情が止まない。読書をきっかけに空想世界に飲まれてしまったという先輩の祖父の人物像は、先輩自身の行く末を暗示しているように思える。

先輩が虚栄から脱し、自然体でいてくれることを願った瑞穂さんは、ますます空想を膨らます一方の彼の元から去った。それに対して主人公は、空っぽな自分を虚構で埋め立てる先輩を受け容れ、先輩の物語の続きを聴かせてほしいと言う。

「嘘だからなんだというんだろうな。僕はつまらない、空っぽの男だ。語られた話以外、いったい、僕そのものに何の価値があるんだろう」
「じゃあ嘘をつけばいいじゃないですか」

主人公は、実際に京都で街で見た神秘も、先輩のように部屋に籠り魂の京都散策によって出会った怪異も、どちらも京都の不思議なのだと、先輩の苦悩を肯定する。

この話の不気味なところは、先輩の空想が他編で現実に起こっていることとリンクしていることである。第一編の「芳蓮堂」、第三編の「胴の長いケモノ」、第四編の「龍」が、先輩の空想の中で彼と関わる。まるで先輩には京都の不思議を察知するシックスセンス的能力が備わっているようである。
森見氏の別作品、「宵山万華鏡」の第三編「宵山劇場」も似た構成になっており、現実世界とパラレルに存在する異世界で蠢く奇妙な者たちの姿が、アイデアとして浮かんでくる=異世界とリンクするような女の子が登場する。

 

空想が現実を生んでいるのか、現実が空想に影響を与えているのか。どちらが先かわからないが、空想と現実はお互いに影響し合って、空想が現実を作り、逆もまた然り、のような関係になっているのかもしれない。

先輩の話は全くの出鱈目ではない。彼の話はおもしろかった。

きつねのはなし_第一編 考察

森見登美彦氏の小説、「きつねのはなし」について、読書感想文というより、謎解き・考察のような形で書いていく。一部解けなかった謎はそのまま謎として書いているので不思議リストのようになっている箇所もあるが、どうかご容赦いただきたい。(同氏の小説「宵山万華鏡」のネタバレも少々含んでいるのでご注意を。)
四編の短編怪談が収録されており、一つ一つが凝った作りになっていて面白かったので、各編ごとにじっくり書いていく。

 

その前に「きつねのはなし」全体を通しての感想を少し。

伏線がそこかしこに張り巡らされ、明示的にその回収をしないまま終わってしまうので、これをさらっと読むと「なんだかよく分からない、不思議を詰め込んだ物語」という印象になってしまう。しかし、一回読んだ時に気になった点を確認するためもう一度読むと新しい発見があり、また気になる点が生まれ三周目、四周目…と「きつねのはなし」の世界に引きずり込まれるように没頭してしまった。

この作品を読んでいると、薄暗い街頭が点々と灯る真夜中の京都の街を歩いているような感覚になった。全体も核も見えないけれど、絶妙に照らされている場所をよく観察し暗闇に隠されているところを想像していくと街の実態が見えてくる。決してただの不思議話集ではなく、人ならざるものが存在し暗躍する、ある意味での事実が隠されているのではないかという疑念というか、希望のようなものが湧いた。全ての不思議を解決できたわけではないので、できれば森見氏に直接「これってどういうことですか」と聴取したいところだが、そんなわけにもいかないので、自分なりの解釈をここに記録しておこうと思う。

 

 

【第一編_きつねのはなし】

骨董品店店主のナツメさんという女性の元でアルバイトをする大学生武藤が、不気味な老人 天城との取引によって不可思議な出来事を体験していく話。

 

モノの受け渡し、つまり取引によって、天城は相手の大切な何かを奪う。
被害者はまず些細なモノの要求に応じることよって、「取引」という蜘蛛の巣のようなねばっこい糸にからめとられる。

一読した時は、武藤が天城に電気ヒーターを渡したことが取引の始まりだと思っていた。しかし再読してようやくナツメさんが武藤を天城に贈与したことが彼の運の尽きだったのだと分かった。武藤が天城に持って行った蛙の小箱には、武藤を象徴する何かが入っていたのだろう。それが入った蛙の小箱を渡すことは、天城に武藤を渡す儀式のようなものであったと考えられる。これは蛙というモチーフを武藤と紐づけることも意味していた。後に天城から出されたスープ椀の底に蛙と武藤の彼女、奈緒子が描かれているのを見て武藤が激怒するシーンがあるが、これは天城の卑猥なミミックに対しての怒りなのだと推測する。

 

天城の誘拐についての謎解きは話の辻褄を合わせようとするとうまくまとまらないので、想像で補強に補強を重ねたこれはもはや新しい怪談かもしれないという私なりの「きつねのはなし」解釈について語っていく。

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天城の最終目的は、相手が気に入っている人物を奪うことだと推測する。取引相手に化けて、その人の大切な者を赤い鳥居の奥へと連れ去る。連れ去る先は異世界ともいうべき空間、祭りである。

ナツメさんが語る節分祭の様子は、まるで祭りが液体のようだ。本作だけでなく、「宵山万華鏡」でも同様の描かれ方をしている。第二編「宵山金魚」では以下のような記述があったり、露店が並ぶ路地を走り回る赤い浴衣の女の子たちは祭りを泳ぐ金魚の霊(?)妖怪(?)であったりと、祭りは温かな光に満ちた水槽のような印象を与える。

祭りがぼんやりと輝く液体のようにひたひたと広がって、街を呑みこんでしまっている。

天城は連れ去った人を「祭り」という水槽に入れ、鑑賞して楽しんでいるのではないかと思う。

森見氏ワールドにおける「祭り」について私説を少々現実世界(以下、「此岸」と呼称)では一般的に年に一度、ある時期にのみ「祭り」は開かれる。しかし異世界(以下、「彼岸」と呼称)において「祭り」は常に存在する。此岸で開催される祭りは彼岸世界と交わる特別な空間なのだ。

そのため、彼岸に閉じ込められた奈緒子を連れ戻すには決まった手順を踏んで節分祭に入り、出ていく必要があったのだと考える。その事実をナツメさんは知っていたから、武藤に祭りへの入り方を具体的に伝えた。しかしナツメさんから教わった手順「振り返らず、走らず、祭りを東から西へ抜けること」に違反している。つまり結局、武藤は彼岸から奈緒子を連れ戻せておらず、本物の奈緒子は彼岸に置いてきたままになっている。だから祭りのあとも、'奈緒子が、狐の面を被っているように見えたことがある'というような体験をした…?
節分祭の日武藤が辿ったルートと、ナツメさんの父が亡くなった日に天城が辿ったルートが一致しているのが不気味であり、縁起が悪い。
武藤自身も彼岸に捕らえられた可能性についても考えたが、祭りの外に出ていることと、天城が亡くなったという彼岸世界には関係のなさそうなニュースを知っていることから、彼は此岸にいると思われる。
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ナツメさんの節分祭の思い出には謎が多い。
隣を歩く狐の面を被った男が自分の父であることに気付かないのはおかしい。その狐面の男が亡くなったことは知っているのに、それを自分の父のことだとは言わない。まるで知らない人に起こった不幸のように話す。

奈緒子を連れ戻すためにするべきことをナツメさんが知っていたことも不可解だ。彼女は「祭り」の正体も、天城の思惑も知っていたに違いない。それでも天城との取引に武藤を巻き込んだのは、自分の保身などの自己中心的な理由からだろうか。武藤が彼女を「自分の代わりに何を受け取ったのか」と問いただした時の「あなたは何も知らない方がいい」という反応から、私的な理由ではなく、何かもっと重大な事由があって武藤は利用されたのだという気がするが、真相は分からない。

 

天城とはいったい何者なのだろう?
この作品の題「きつねのはなし」から、天城は人に化けた狐であり「魔」でもあり、悪戯に人間からものを奪っていく話とも読める。しかし、彼には学歴や職歴など人間としての過去があり、地主家系で代々裕福だったらしい先祖の影も見える。そして彼を狐と仮定したときにもう一つ気になるのが、彼が亡くなった時も人間の姿だったことだ。人間に化けているのなら、死んだときには正体が明かされるのではないか。これらの理由から私には天城がどうも人間臭く思えるのである。

彼と狐を結び付けるとしたら、このように考えることもできる;
  人間に化ける狐の力を持った骨董品を所有しており、それを使って更なる蒐集を楽しんでいる。

その骨董品は、勿論狐の面である。これは「ただ被ったら化けられる」というシンプルなものではないらしい。狐の面を被っている人は「狐の面を被っている人」として目撃されているからだ。その上、狐の面を被って溺死した人がいたり、喉に何かが詰まって苦しむ幻影が目撃されていたりすることから、リスクを伴う代物だと分かる。そんな危険物に天城やナツメさんの母が異常なほど執着することは、本作品中の不可思議のうちの一つである。

武藤は亡くなった人がその面をつけている姿を想像してしまう。狐面は死を招くものなのだろうか、彼岸と繋がる道具なのだろうか。それとも、狐が他のものに化けるように、人の死も偽装されているようだということを表しているのだろうか。

 

以下の説は私独自の「祭り」解釈に基づくものなので、そもそも祭りが液体で満たされているわけでも異世界繋がっているわけでもなければ、忽ちこの「狐の面論」は灰と化してしまう。そしていくつかの設定を無視する手荒な推測になるが、寛大なお心をもって読んでいただけると幸甚である。

 「 狐の面は彼岸と繋がる道具であり、これを被ることによって彼岸と此岸を行き来することができる。
  しかしあまり長時間つけていると、祭りに溺れ、此岸で溺死し彼岸から出られなくなってしまう。 」

・・・
狐の面も、天城の正体同様謎ばかりだ。

 

この話のラストは、天城が自身の屋敷で亡くなっている場面だ。

彼は奥の座敷の真ん中に、うつぶせになって倒れていた。溺死であった。そばには濡れ濡れと光る黒塗りの盆が転がっているだけで、ほかには何もなかった。
 彼の遺体を動かして口を開かせると、赤い金魚がころんと転がり出たという。

座敷に横たわる彼が狐の面を被っていたとは書かれていない。ただ、ナツメさんが持って行ったものと思われる黒塗りの盆だけが落ちていた。この盆には動く赤い蘭鋳が描かれていたはずだ。天城はこの盆に溺れ、盆を泳いでいた金魚を呑みこんでしまったのだろうか。
作中に出現する狐面を被った幻影は、「粘る唾を喉につめたような音」をたてた後、身を捩らせてもがき苦しむ。この最後のシーンを読んでから幻影たちの行動を思い返すと、彼らは皆金魚を喉に詰まらせて苦しんでいたのだとようやくわかってぞっとする。もしかしたら、武藤が見た幻影は天城の最期の予告だったのかもしれない。

 

「きつねのはなし」は全四編中一番難しく、核となる設定の仕組みが未だに不明だ。

京都を蠢く謎の正体は、まだ私には見えないらしい。

 

落第_勉学への姿勢

感想文を書いている間は非常に楽しいのだが、
数か月経って何を書いたのかすっかり忘れた頃に読み返すと、
だからなんだということがつらつらと書かれているだけの文字の集合にしか見えない時がある。

仕事に心が圧迫されて余裕のないときに、
こういう寂しい考えになりがちである。
今日も仕事関連の心配事を背中にたくさん抱えていて正直落ち着かないが、
平日から聞こえてくる私を急かす声に耳を塞ぎ、悠々と読書感想文を作成しようと思う。

 

夏目漱石の「落第」(1972)を読んでの感想文。

これは漱石ファンにとってはたまらない作品だった。
彼の学生時代の経験や考えを知ることができる文献は貴重である。

この作品は漱石の談話を記録したもので、自分の学歴に焦点を当て当時の学校制度について説明した後、
なぜ中学を中退して二松学舎に移ったのか、
なぜ専攻(力を入れた学問)が漢文から英語、フランス語、建築科、国文に流れることになったのかについて書かれている。

学業の方向転換の一つ一つに10代の少年の思考とは思えないほど凝った理由が存在しており、
彼の鬼才ぶりを再確認することができる。
本作品で、特に面白いと思った逸話を以下に挙げる。

・病気のため受験できなかった二級の試験の再実施を教務係の人にお願いしたのだが、学校自体が大イベントを抱えていたため忙しく、取り合ってくれない。
「そこで僕は大いに考えたのである。…追試験を受けさせてくれないのは、忙しいためもあろうが、第一自分に信用がないからだ。信用がなければ、世の中へ立った処で何事もできないから、先ず人の信用を得なければならない。信用を得るにはどうしても勉強する必要がある。

幼いころから学業優秀だった漱石は、大学予備門(今でいう高校)時代
「唯遊んで居るのを豪いことの如く思って怠けていた」ために成績はあまり振るわず、
運悪く発症した腹膜炎の所為で二級の学年試験を受ける事ができなかった。
その時に経験した落第、それまで縁がなかったであろう学業での挫折が、
その後の勉学への上昇姿勢に繋がったという。
勉強漬けで学生時代一貫して優等生という漱石のイメージが覆る面白い記述だ。


・建築科を選んだ理由として、
「自分は元来変人だから、このままでは世の中に容れられない。世の中に立ってやっていくにはどうしても根底からこれを改めなければならないが、職業を択んで日常欠くべからざる必要な仕事をすれば、強いて変人を辞めずにやっていくことができる。

お堅くスマートな印象の強い漱石は、意外にも自虐的な発言をすることがままある。
上記でも、自分のことを「変人」だと認めているし、他の作品(「処女作追懐談」(1972))では大学卒業当時の自分を振り返って「卒業した時には、是でも学士かと思う様な馬鹿が出来上った」と語っている。
変人についてはともかく、東大の英文科で特待生だった自分を馬鹿呼ばわりとは、何事か。

・「人間というものは考え直すと妙なもので、真面目になって勉強すれば、今迄少しもわからなかったものも瞭然と分かるようになる。」

自分は馬鹿だから、と難しそうなものを理解できないと決めつけていても、
やってみたら意外と分かる・できるようになることってありますよね~

・「元来自分は訥弁で自分の思っていることを言えない性だから、英語などを訳しても分かっていながらそれを言うことができない。けれどもわかっていることが言えないというわけはないのだから、なんでも思い切って言うに限ると決心して、その後は拙くてもかまわずどしどし言う様にすると、今迄は教場などで言えなかったこともずんずん言う事ができる。こんな風に落第を機としていろんな改革をして勉強したのであるが、僕のこの一身にとってこの落第は非常に薬になったように思われる。もしその時落第せず、ただ誤魔化してばかり通ってきたら今頃はどんな者になっていたか知れないと思う。

失敗をバネに、の美しい実践。(落第の直接の原因は病気なので失敗というより不運だが)
漱石にとって落第は、不運で片付けられる偶然の出来事などではなく、
起こるべくして起こった、勉強不足の積み重ねの結果だと捉えているようだ。
自分はなんでもできるという万能感とナルシシズムに溺れることなく、
「自分は馬鹿だ」と言うほどの謙虚さを持ちながらもポジティブに勉強に取り組んだ経験は、
漱石の人格形成、そして作品に大きく影響したのだろう。

「落第」には私自身の学生時代の悩みと藻掻きと重なるところが多くあり、とても面白く読んだ。
漱石の小説ももちろん好きだが、談話録も「夏目漱石」という人物を捉える楽しさがあって良い。

夏目漱石_文章による「美」の創作

夏目漱石の作品の魅力のひとつは、彼の美的センスが発揮されたロマンチシズムだ。

読み終わった後にはいつも「美しかったなあ」という印象が残る漱石作品たち。
焦点が当てられる上品なモチーフたちとその鬼才的な組み合わせは、彼の美的技術の高さをうかがわせる。
今まで漱石作品を好きな理由について具体的に考えてこなかったが、
彼が美術を趣味にしていたことを最近知り、この美への関心が作品を魅力的にし、
現代でも人を惹きつける要因のひとつになっているのだろうと思った。

草枕』はその芸術論を突き詰め、文章に昇華した作品だと言える。
そこまで極端なものでなくても、『三四郎』『こころ』『門』などの作品群は、
にっぽんの美ともいうべき奥ゆかしく繊細で迂遠的なロマンスや風景で彩られている。

西洋文化の美にも親密な彼が生み出す作品ににっぽんの美が満載されていると断言するのには少し違和感があったので、この点について考えてみた。
作中にはもちろん西洋文化的美の要素も入っている。
しかしあくまでも日本国内で扱われている西洋文化であるため、その美もやはり日本的だと感じさせる。
「日本における西洋文化」の描き方は、漱石も意識したところではないかと思う。
西洋の美の華やかさをそのまま自身の作品に持ち込んでいるわけではないと私が考える理由は、以下の二点。
・「I love you」の日本語訳についての逸話が残るほど、漱石は日本人の機微に通じている人だったこと
・『処女作追懐談』にも書いているように、彼は他人のコピーを嫌っていたこと
彼の鋭敏すぎる感覚がキャッチする日本人の国民性のようなものに沿った形に描き、
「日本は西洋文化の真似をしている」のではなく、
「必要なものを生活スタイルに合わせて取り入れている」という風な書き方をしている。
あえて「西洋文化を何でもかんでも真似る」というキャラクターを作っていることもあるが、その場合は少し滑稽さを含んだ、文化的に高貴でない人物に見える。

このような人間や文化を描く時の繊細な気遣いに、私は「漱石の小説らしさ」を感じている。

 

私の中で漱石作品における美の象徴たるものは、『それから』の冒頭と末尾部分だ。

冬の日、門前を駆けていく行く下駄の音を半ば夢の中で聞き、その画を目前に見た。
そして目が覚める。枕元には赤い椿、赤ん坊ん頭ほどもある椿。
それが夕べ首からぼとんと落ちた音を、確かに聞いたという。
そして終末は、「ああ動く。世の中が動く」と口からこぼれ、赤いものが目に付きだす。
赤いポスト、赤い蝙蝠傘、赤い風船。それらが代助の頭の中で渦を巻き回転する。
私はビートルズの音楽が聞こえるような気がしてくる…

上記描写は、映画のシーンのように映像と音が記憶に染みついている。
ただ、小説のプロットを全くと言っていいほど覚えていない。
350ページ近い作品の中盤の記憶が欠落していたり、『それから』の内容と混同したり、
もうこれは『門』を読んだとは言えぬほどの忘却ぶり。
私はちゃんとこの小説について記録を残していただろうか。
自分の記憶力を疑い、ちゃんと書き記しておくことを最近は習慣づけているが、
この作業は決して疎かにしてはならないと改めて思う。
話が逸れたが、『三四郎』(新潮社の第二版)の解説で、漱石が以下のように小説のタイプを分類していたと書いてあるのを読んだ。
1. 筋の推移で人の興味を惹く小説
2. 筋を問題にせず、一つの事物の周囲に躊躇彽徊することによつて人の興味を誘ふ小説
二つ目のほうは俳味・禅味を帯びたものである、とのこと。
つまり、タイプ2の核は、ストーリーではなく人間の心理・思考の動きである。
そこに寂れた美しさが漂っている。
『それから』の話の内容を覚えておらず「唯美しい感じ」が残っているのは、この作品がタイプ2に当たるからなのだろう。

彼の目指した「文章による美の創作」の対象は、ロマンスや風景だけでなく、
女性もそこに含まれていると感じることがある。

『明暗』に登場する女性たちは、彼女らが主人公のような描かれ方をする場面があることもあって、
内情があけっぴろになっている印象を受けた。
そのため心のうちで蠢く意地汚さやプライドが読者に晒され、
顔立ちが整った美人である主人公の妹にさえも美しさは感じない。

一方『三四郎』の美禰子は、彼女側の思考やモノローグが書かれることがない。
彼女の感情を評価できる数少ない材料である言動も、
誰に好意を寄せているんだか、何がしたいんだかはっきりわからないことが多い。
恋の媚薬に大いに惑わされている三四郎から見た美禰子の姿は、
いつもゆらゆらと定まらぬ美しき幻影のようなものだったのだろう。
その恋愛に酔ったような状態にあるときに、特殊なフィルターを介して見る女の神秘的な美しさを、
漱石は文章で創り上げたかったのかもしれない。
その結果生み出されたのが「美禰子」という美人像である、というのが私の見解だ。
現実世界に美禰子のような言動をする女は存在しないはずである。
美禰子に近い雰囲気を持つ言葉数の少ない美女はいるかもしれないが、
男女二人きりで話しているときに「ストレイシープ」なんて呟くアンニュイ乙女はどの時代にもおらんだろう。
いないというより、美禰子を構成する要素をクリアし、かつ、美禰子と同じ社会的評価を受けることは非常に困難である。
天性の力で男を魅惑する女を徹底的に男目線で描いたから、
美禰子は非現実的なまでにロマンチックな女に仕上がったのだと思う。
そしてそれが、漱石が描きたかったものだったのだと私は考える。

三四郎_完成した画の前で

完成した大きな画を前にした与次郎、広田先生、野々宮、三四郎の四人。
野々宮と三四郎は共に美禰子に弄ばれた挙句実物と一緒になることは叶わず、こうして画の女の前に立つ。

三四郎に劣らず、野々宮も実に可哀そうな目に遭っている。

野々宮の敗因は、素直に考えると研究に没頭しすぎたことに当たる。
研究ばかりの彼はきっと自分を女として充分に可愛がってくれない、面倒もあまり見てくれない。
しかもお金に頓着しない性質だから、この人と一緒になれば生活の質が落ちることは明らか。
そういった損得面での懸念もあったのかもしれない。

しかし、世界の野々宮でさえ愚弄せしめる美禰子のことだから、
頭の切れる野々宮にも何か人間的な欠点があり、
そこを持ち前の慧眼で見抜いて彼を落選させた可能性がある。

菊人形を見に行く段で、美禰子が野々宮と広田先生のどちらか、或いは両方を指して

「責任を逃れたがる人だから、丁度好いでしょう」(123)

と漏らす。
どちらに対しての言葉かは文中に明示されていないが、十中八九野々宮に対してだろう。
広田先生は、美禰子を疲弊させるほど彼女からの注意を得ていないからだ。

野々宮さんは菊人形の会場付近で乞食と迷子に誰も手を差し伸べない様子を見て、
この情景を一種の社会現象として諦観しているような態度をとる。
この時の会話から「責任」という言葉が引用されている。
また、人いきれから逃れた三四郎と自分を、菊祭会場で見た「迷子」に例え、

ストレイシープ」(124)

という単語を呟く。
ストレイシープ」とは、「百匹の羊を飼う者はそのうちの一匹が迷子になれば、ほかの羊を置いてでもその一匹を探し求める」というマタイ伝18章12-14節にある寓話からのサイテーション、とのこと(注釈より)。

美禰子は協会通いをしており、彼女の行動指針はキリスト教からの影響を受けているのだろう。
この教えに養成された道徳観も、彼女が野々宮から離れる原因の一つになったのかもしれない。

前回の投稿でも書いたように、美禰子には男にジェントルマンであること、
そして「レディー(自分)ファースト」であることを望んでいるようなところがある。
「自分の女を大切にする」という心を、彼女は野々宮から感じたかったのかもしれない。

場所が悪かろうが何だろうが自分を一番大切にして愛してくれる、
そして自分を妻として持つことに責任を負う気概のある人のもとに行きたいと願った。
心で通じあう、詩人的ロマンスを求めた。

それに対して野々宮は、確固とした事実のみを信頼する物理学者である。
彼にとってすべては物質、研究対象のように扱う。
美しい美禰子を人込みの中に放置して、まるで気にかけない。いなくなったって探したりしない…
そんな無責任な男の態度が美禰子にとっては屈辱であり、野々宮への失望の種になったのだろうと私は考える。

 

三四郎が野々宮を評して、

「世外の功名心の為めに、流俗の嗜慾を遠ざけているかの様に思われる」(161)

と言った。
勉学に対する努力を意図的に継続している感があるということである。
さらに言い換えると、頭が良いファッションをしている、ということになる。
この野々宮のかっこつけが美禰子には気に入らなかったのかもしれない。

本当は綺麗な女の人もかわいい妹も大好きなのに、
それを俗っぽいという理由で遠ざけ、堅物を装っている凡人だと、
美禰子は見抜いていた。
(上の説と小説序盤野々宮が美禰子にリボンを贈るシーンはぶつかってしまうが、
私は今のところそれに対する弁論を持っていない)

彼女は彼を恋愛対象、ひいては結婚相手候補として見ていたからこそ、
彼のかっこつけの鎧を剥がし「流俗の嗜慾」を露わにするために、
彼の前で第二夫候補である三四郎カップごっこをするという荒業に出たのではないか。

それにまんまと引っかかってあからさまに機嫌を悪くする野々宮。
それを面白がる魔女、美禰子。

そんな美禰子の策略も彼のかっこつけ体質を変えるに足らず、
(もしかしたらむしろ拗らせる原因になってしまったかもしれない)、
美禰子に対して感情を表すことはなかったから、彼は選ばれなかったのだろう。

美禰子の結婚披露宴の招待状を破り捨てる行動は世俗的感情から発したものか、
それともただ単に他人に興味がないことを表しているのか。
わざわざ引きちぎって彼女の画の前に捨てるなんて、なんとも感情的で俗っぽい。

 

三四郎と美禰子だけが知る、この画の本当の題名「ストレイシープ」。
若い彼らはまだ、安寧の地には辿り着いていない。

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夏目漱石(2000) 『三四郎』[第二版] 新潮社

 

三四郎_美禰子の夫選び

美禰子がほかの男のもとに行った理由は何だったのか。
三四郎はどうしたら美禰子と一緒になれたのだろうか。

 

与次郎曰、

「二十前後の同じ年の男女を二人並べてみろ。女のほうが万事上手だあね。
…よく金持ちの娘や何かにそんなのがあるじゃないか、望んで嫁に来て置きながら、亭主を軽蔑しているのが。
美禰子さんはあれよりずっと偉い。
その代わり、夫として尊敬の出来ない人の所へは始から行く気はないんだから、相手になるものはその気でいなくっちゃ不可ない。
そう云う点では君だの僕だのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」(272)

とのこと。

与次郎の説が正しいとすれば、美禰子は三四郎を能力面(男としての振る舞いや経済力など?)で自分の夫になるレベルではないと評価したことになる。
しかし一方で、協会から出てきた美禰子は三四郎に向かって

「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」(281)

三四郎への恋情を吐露する。
(上記は「こころ」(1914)で先生が言った「恋は罪悪」という言葉を連想させる。
この美禰子の言葉の引用元である旧約聖書は、夏目漱石の哲学に長く影響を及ぼしていたのだろう)

尊敬や夫としての働きという夫選びにおける評価を別として、彼らは池のほとりでお互いを目にしたときに恋に落ちていたのだと思う。

お互い、一目ぼれだった。
三四郎には妻選びなんていう思考は一切なく、感情の赴くまま、美しい美禰子との時間を楽しんでいた。
野々宮さんと美禰子の関係や、美禰子の自分への思いについて常に不安があるから、今はもう美禰子と会えるだけでいい。
結果を急ぐ必要はない。
迷子のままで構わないのだ。

20代前半の男には、結婚なんて視界に入っていない。
妻を連れるなんてまだ先のこと、他人事くらいに考えている。

一方美禰子は、三四郎と同い年でも、女として結婚適齢期を迎えている。
親もこのくらいの年で結婚し、友人も次々嫁入りし、自分のところには方々から縁談が来る。
恋愛している場合ではない。
生活していくために、夫として相応しい人の所に行かなければいけない。

そんな状況に、鈍い男は気づかない、気づいても気遣いはしない。

美禰子は迷う。
一時かもしれないこの感情のまま進んでもいいのか、生活していくことを考えて条件で選ぶべきなのか。

彼女は後者を選んだ。

・・・

 

上では美禰子側の事情について妄想した。
次は、三四郎に足りなかったものは何だったのか、どこで間違えたのかについて考えていく。

まず思い当たるのは、三四郎のはっきりしない態度である。

美禰子への好意は周囲に駄々洩れなのに、本人を前にすると身が固まったようになりうまく気持ちを表現できない。
上京の電車の女から言われたのと同じことを、美禰子にも感じさせてしまったのかもしれない。
美禰子は賢く感覚の鋭い女だから、きっと三四郎の意気地のなさや硬さに何かしら思うことがあっただろう。
これらの彼の性質は、当時の感覚として、男としての頼りなさに繋がるのではないかと私は考える。
女が偉くなってきて困ると広田先生がため息をつくような時代でも、やはり家長は男だし、生活を支えるのに十分なお金を稼ぐ仕事ができるのも男。
これから先の生活を考えると、このような「男らしさ」や「頼りがい」は夫選びの中で必須項目になってくるのだろう。

そして、上記に繋がる「ジェントルマン」性。

美禰子は協会に通い、会話の中でキリスト教の寓話を引用したりもする。
西洋の画にも多少の知識はあるようだ。そして英語を習っている。
そんな人物が西洋の書物(教典や小説)などから「ジェントルマン」という概念を身に着けていたとしても不思議ではない。

彼女は男にレディーファースト、ひいては自分ファーストの実行を望んだのかもしれない。

実際に夫として選んだ男は、自分の帰りが遅いからといって車で迎えに来てくれるような人物である。
さらにわざわざ車から降りて、美禰子の隣を歩く見知らぬ男に、朗らかに挨拶をする。
なんともジェントルマンらしい振る舞いだ。

また、彼は自分の妻が絵のモデルとして褒められているのを耳にして、嬉しそうな表情を浮かべる。
自分の妻を誇りに思い、それを態度に出しているところが、美禰子が求める妻としての喜びを満たしているのだろう。

三四朗はどんなに女を想っていても、どこか冷めた態度をとってしまう。
田舎で培った感覚が女に従属することを拒否しているのか、ただ単にシャイな性格のために愛情表現が苦手なのか。
お堅いエリート学生であり九州男児である三四朗と、慈愛溢れる柔らかなジェントルマン像には幾里かの隔たりがある。

もう一点気になるのが、タイミング。

もしもっと早くに気持ちを伝えていれば、三四郎が美禰子を逃すことはなかったのだろうか。
私は否と考える。

美禰子は自分の意志で選び行動することに拘る。
三四郎が手を差し伸べても、彼女は掴まない。
手をおろした時に、ただ彼女の目の前に立っている状態になった時に、
漸く美禰子は判断を下し、彼の腕をつかみ頼るのだ。

男を振り回そうが強引だろうが、自分のことは自分で決めるんだから仕方がない。

では結局どうすればよかったのか。

私は、二人がここで結ばれるエンディングはどうしたってなかっただろうと思う。
二人がどう行動したって、23歳時点での性格や考え方では、お互いが今求めているもの・求めないものが合致しない。
妥協も難しい。
そうなると、与次郎の言葉「もう五六年経たなくっちゃ、その偉さ加減が彼の女の眼に映ってこない」の通り、
二人とももう少し年をとって、大人特有の判断が身に付いたときにはじめて一緒になることができるのかもしれない。

夏目漱石前期三部作」において「三四郎」(1908年初版)に続くとされている「それから」(1909年発表)では今述べたように二人の関係が展開するので、与次郎の言葉は全く出鱈目でも悪戯でもない。

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夏目漱石(2000) 『三四郎』[第二版] 新潮社

 

三四郎_決着

美禰子への借金返済を実行に移す時が来た。

美禰子がいるという画家の邸宅を訪れ、そこで彼女がモデルの絵が完成していくのを目にする。

豪奢で趣のある画家のアトリエやモデルをする美禰子の様子が繊細に説明されているこのパートは、
私のお気に入りの一つである。
こういった美しい描写は、読者の頭の中の一角を美術館にする。

三四郎と美禰子は二人そろって画家の家を後にする。

美禰子がなぜ画家の家に来たのかと尋ね、はっきり答えかねる三四朗。
しかしこれ以上決着を先延ばしにするわけにはいかない。

「ただ、あなたに会いたいから行ったのです。」

これが彼に言えるすべて、彼の真直ぐな想い。

美禰子はまともに応答しない。
ただ、絵のことを話し始めた。

絵の描き始めの時期が、三四郎と美禰子が池でお互いを見たときと重なる。

「『あなたは団扇をかざして、高いところに立っていた。』
『あの画の通りでしょう。』…」(241)

三四郎のひとめぼれの、美しい光景が絵になっていく。
思い出の光景、記念の光景。

絵の完成を待たずに、彼女は三四郎に見切りをつけていた。

美禰子は西洋風な背の高い男のもとに行ってしまった。…
(原文に西洋風とは書いていないが、私の頭の中において美禰子の旦那さんはモダン好きなスーツ姿の金持ちという設定である)

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夏目漱石(2000) 『三四郎』[第二版] 新潮社