きつねのはなし_第四編 考察

森見登美彦氏「きつねのはなし」第四編、「水神」の考察。

ネタバレもりもりでお送りします。

 

【水神】

祖父の葬儀のため、京都の屋敷に集まった樋口家の一族。大学生の主人公は父と二人の叔父たちと一緒にお酒を飲みながら、祖父からあるものを持ってくるように依頼されたという古道具屋「芳蓮堂」が来るのを待った。祖父にまつわる思い出話の中で、この屋敷に住む不穏な影の存在が浮かび上がってくる。丑三つ時に到着した芳蓮堂が持ってきたのは「100年前の琵琶湖の水」。この水をきっかけに、屋敷に住む何かが暴れ出す…

 

青緑色の水で満たされた硝子張りの中庭とその中に佇む小さな祠、その後ろで茂る背の高い竹林、ゆらゆらと弱い光が漂う廊下が映像として頭に残っている。不気味な物語の中で、日本家屋の美しさが映える小説だった。

 

京都の鹿ケ谷に立派なお屋敷を所有する樋口家。この一家には、祖父以外誰もその正体を知らない家宝が受け継がれてきたという。そんな謎めいた家宝について、叔父たちは芳蓮堂が持ってくる何かだと思い込み浮かれている。しかし私が推測するに、家宝とは祖父がその身に宿していたケモノ、龍だったのではないか。

祖父だけが家宝の正体を知っていて、周囲が「うちには金銀財宝が…!」などと勝手な憶測を飛ばすのを面白がっていた。「家宝」と聞いて財宝の類を想像するのは決して不自然ではない。それを笑うということは、その推論は全くの見当はずれで、実際はモノではないもっと別の何かだからなのかもしれない。

祖父は「器が足りない」という理由で息子たちに家宝を継がせる気はなかったそうだ。厳格で周囲と馴れ合うことのなかった彼は、親族に対しても冷たかった。しかし例外がただ一人。主人公だけは明らかにお気に入りとして特別扱いしていた。介護の意味も含めて同居しようという親族からの打診を悉くはねつけたにも関わらず、主人公には学費を出してやるから京都に来い、一緒に屋敷に住めと言った。主人公への甘々な態度は、彼に家宝を継がせたいと思っていたからではないか。

家宝を継ぐ資格。それは酒への耐性だと推理する。祖父の三人の息子たちは皆酒に弱い。葬式の夜、主人公の父も叔父二人も酔っぱらってふやけていた。一方樋口家の初代が琵琶湖疎水建設中に掘り起こしたという家宝を継いできた者たちは、皆酒豪だった。そして主人公も、父たちと酒を飲み語らっている場面でしれっと酒豪の素質を見せている。この酒への耐性が、家宝を継ぐのに必要な資質だったのかもしれない。

酒に飲まれない強さ、それは家宝である龍に精神を飲まれない強さを示していると推す。初代が湿った隧道で家宝を掘り起こした時、どうしたか。彼はそれ飲み込んだのではないか。疎水建設によって掘り起こしてしまった水神を、彼は飲み込み、自分の体に封じ込めた。そしてその荒ぶる神は家宝として3代にわたって引き継がれてきた。彼らは体や精神が老衰によって弱ってくると、自身に巣食うケモノに乗っ取られたようになり、
目つきは人間のものと思えないほど鋭く、奇怪な行動をとるようになる。

この危険な家宝は、100年をもって樋口家を離れる。主人公が跡を継がなかったために、祖父の代で龍は解放され、しばらくは屋敷の中を彷徨った。祖父の肉体の死後、龍は祖父の体を使って芳蓮堂に「100年前の琵琶湖の水」を持ってくるように連絡する。祖父は衰弱してからというもの水ばかり飲み、水を口にいれては「まずい」と憤怒していた。彼、つまり龍が欲していたのは琵琶湖の原水、「おいしい水」であった。芳蓮堂が持ってきた水を飲みほした龍は力を取り戻し、琵琶湖を目指して疎水を逆流するも、目的地には至らなかった…

というのが、私の妄想解釈である。

主人公の祖母にあたる人物、花江さんについて。彼女は、神の逆鱗に触れたことにより水に沈んだ神社の伝説が残る、琵琶湖近くの村出身。彼女の頬にある傷は、この伝説と何か関係があるように思える。また、曾祖父が開いた大宴会に来ていたという「顔に白布を巻き付けた芸妓」も、花江さんと関連して非常に気になる存在だ。(顔に白布を巻く伝統か何かがあったりするのだろうかと思い調べてみたが、そんなものはないようだったので、この芸妓さんは顔に傷を負っていたために白布を巻いていたのかもしれない)彼女がもし本当に荒ぶる水神を治めるための人魚だったとしたら、主人公は人魚のクオーターか…と余計なことを考えてしまった。

この作品の鍵のひとつ、大宴会については、全く正体がわからなかった。樋口家初代、曾祖父、祖父と三代にわたって「死神」をもてなす大宴会が開かれ、その後彼らは皆不審な行動をとるようになったという。死神とは何のことだったのか。龍のことか、それとも別のケモノなのか・・・



森見登美彦氏の「きつねのはなし」を各編ごとに考察してきたが、こういった謎解きは氏の想定にそぐわないかもしれない。京都の不思議をそのまま受け容れることも、この作品の良い読み方のひとつだろう。
私は不思議の解剖を試みるという無謀なことをしてしまったが、これはこれで楽しかったのだ。きつねのはなしは、不思議世界の探索という、私にとっては新しい読書体験を与えてくれた作品になった。