にごりえ_読書感想文

はじめての樋口一葉
大学時代お世話になった教授の娘さんは樋口一葉からとって「一葉ちゃん」と名付けられたそうで、この話を聞いて以来ずっと彼女の作品を読んでみたいと思っていた。教授の専攻は国文学。文学部に入学した身で恥ずかしいが、彼の授業を受けて初めて古典文学の面白さに気づき、彼の京大時代のお話もいつも笑えて、毎週の楽しみだった。今年の初め、社会人向けのクラスをやっているからよかったらおいでとお声がけいただいたが、心底残念なことに仕事の時間と被っていて参加できず。もう仕事辞めちまって大学に戻るかと本気で考えている今日この頃この一年二年。

一葉の作品はコンパクトだ。ストーリー自体も面白く、ぐんぐん読めるのに、1作品 数十ページにまとまっているので一気読みで楽しめる。ただ、文語で書かれているので一ページ目を見たときは「おっとこれは難しいぞ、また今度時間のある時ゆっくり読むか…」と後回しにしてしまおうか迷った。しかし3ページも進めばコツがつかめる。そのままするするとゴールできた。文に慣れるまでのもどかしさを耐え抜けば、樋口一葉が読めるカッコイイ人になれるのだと学んだ。

 

さてさて、今回読んだのはにごりえ
あらすじは特に書きません。1分で内容がわかるように書いてくれている記事がごまんとあるのでね。私は登場人物の性格や感情、そして詩趣に注目して、自分なりの解釈をここに記録していこうと思う。

まずは主人公のお力について。
初見での彼女に対する印象は、「バッドエンドのシンデレラ」。美しい外見に生まれたが、生まれの不運により惨めな生活を送ってきた。しかし生来の美貌と愛嬌を武器に上客からの寵愛を獲得し、さあこれから大出世して幸せな人生を手に入れるぞというときに、古い客の恨みか何かによって-されてしまう。一見すると、お力は見た目も心も綺麗な女性。生まれも育ちも人生の終わりも悲惨で、王子様との結婚が叶わなかった悲しいシンデレラである。しかし二度読むと見え方が違ってくる。彼女は"謙虚で心優しい"シンデレラではなく、営業上手な茶屋の娘だ。

お力は、男女関係なく人を魅了するのに長けている。彼女の性格を率直に表すと、天性の人たらし、といったところか。同僚の高ちゃんのようにお客に対して積極的なわけではなく、あっさりとした、引き際を弁えているクールな女性。帰ろうとするお客は引き留めない。お客の財布からお金を抜き出して「店のみんなで分けて」と勝手にばら撒きふざけた直後、「私はお金は要らないから、貴方の名刺が欲しい」ときざなことを言ったりもする。甘すぎない態度と時折見せる破天荒さ、明るさの陰に見え隠れする悲壮感、朗らかな聡明さがまた魅力的で、お客はホイホイ釣られてしまう。茶屋での仕事は彼女にとって天職だろう。

お力のもとに通う上客、結城も指摘したように、彼女は冗談の端々に教養と頭の回転の速さを見せる。お力のそういった振る舞いは「実は良家出身のお嬢様で、何か事情があってこのようなところで働かざるを得ない状況になっているんじゃないか」と、悲劇のヒロイン感を醸し出している。本人は口では「私は下品な生まれ」の一点張りで、ドラマチックを装おうとはしないが、決して素性を明かそうともしない。すでに数日通っている結城に対しても、「今日は気分じゃないから話したくない、私はそういう我儘な女なんです」と自分の生まれ育ちの話は先延ばしにする。美人の我儘にはある種の魅力があることを本人は分かっていてやっているのだろうか。ミステリアスなお力に、結城も読者も惹きこまれていく。

商売中は明るく可愛くふるまっているものの、お力の本心はいたってドライである。
昔からの馴染みの客、源さんに対して、今はもうお金のない彼に興味は無いのに、切手が二枚も要る量の手紙を出したりと余計な愛想を見せる。分厚い手紙を出すお力を見た同僚は「源さんとお力は本当に想い合っているんだから、一緒になってしまいなよ」と言うのだが、当人は「私はどうもあんな奴は虫が好かないから」と冷淡なコメント。美女からの手紙を受け取った源さんは、いくらお金が無くても彼女に会いに行かざるを得ない。しかしいざお店にやってくると、お力は彼を「持病」呼ばわりして逃げ隠れてしまう。
こんなお力の傍若無人な行動も、源さん側から見たら鬼の所業にも見えようが、本人は悪気があってやっているわけではなさそうだ。愛嬌を見せるのがうまい性格であり、そして商売柄そのような態度が必要だから、振り回される男の気持ちなど気にせず自分の思うがままの言動をしているように見える。この悪気のない我儘さが災いして、源さんの家庭は崩壊、自暴自棄になった源さんに切られてお力は亡くなった、というのが本作に対する私の解釈である。

お力の我儘は、源さんの子どもに寄せる感情と態度にも表れている。
妻子持ちの源さんをたぶらかし、彼の家族には嫌われて当然のことをしているのだけれど、お力は決して彼の家庭を壊したいとか、源さんを自分のものにしたいとか考えていたわけではない。ただ、興味のないものへの対応が雑なのだ。気分次第で行動してしまい、それが許されてきたから、暇つぶし程度に源さんに手紙を出してみたり、彼の子どもにカステラを買ってあげたりしてしまう。源さんの奥さんの気持ちに配慮せずに。
自分の何気ない行動で彼の家族を不幸な目に遭わせておきながら、子どもは可愛いと思うから嫌われるのは辛いと思っている。こんな商売をやらなければならぬ運命だから、子どもに鬼と言われてしまう人生を送っているのだと嘆くお力。仕事を辞めようと思えば辞められるはずだし、お金の無くなった源さんにちょっかいを出すのはもうきっぱりやめてしまえばよかったのだが、ずるずると中途半端に付き合ってしまうのである。

お力に対して少し厳しく書いてきてしまったが、彼女は彼女の生まれ育ちが不運なものであったことは間違いない。お米を買うのにも一苦労なほどの貧しい家に生まれ、貧しいということがどれだけ人生の幅を狭めるかを、自分の親を見て感じ取って来た。だから、どうにかしてこの貧乏の血筋を断たなければいけない。出世しなければいけない。
茶屋での仕事を続けていれば、良い身分の殿方に身請けしてもらえるチャンスがある。でも、茶屋での仕事は辛い。こんなにつまらなく情けない時間が一生続くのかと思うと嫌になる。

「ああ嫌だ嫌だ、どうしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時まで私は止められてゐるのかしら、これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ」

しかし仕事を辞めるにしても、それはどこかに嫁に行って身を固める事を意味するから、自分の身の置き場を決めるにはまだ早すぎる、もうちょっと様子を見て、よりいい男が現れるのを待とう、とお力は無意識のうちに考えていたのかもしれない。もう少し早く「このあたりで貰われておくか」と決めてしまっていれば、世に一般の奥さんになって、自分の可愛い子を持ち、普通の暮らしができていたかもしれない。でも、これも「かもしれない」でしかなく、普通の暮らしが物足りなくて茶屋に逆戻りという可能性だってある。お力はすでに諦めどころを見失って、何が正解かどんどん分からなくなっていっている。

そんな中、ここで決めてしまってもいいと思えるほどの相手が見つかる。しかし彼女の人生に一筋の希望が見えた途端、源さんと無理心中。今までの苦労も悩みも、山に漂う人魂と化した。

 

この作品は「明治時代の低・中流階級の人々の貧しい暮らしと、その生活苦を描いたもの」と紹介されていることがある。勿論貧しい人々の苦しみを題材に書いているのだが、作者が伝えたかったのは「当時の世間の人々の貧しく可哀想な暮らし」だったのだろうか。
私はまだ一葉についての文献を充分読めていないのであくまで個人的な感想だが、この作品が伝えているのは「それぞれの人間の行動が絡まる様子」だと思う。ただ「茶屋娘の悲劇的な生活」を書くのなら、その娘の我儘さを描く必要はない。貧苦に対して読者の同情を得るには、シンデレラのような心優しい可憐な女の子として書くのが効果的だろう。しかし、「にごりえ」の登場人物にそんな物語チックな性格の持ち主はいない。各登場人物の苦労への対処(何かで紛らわす、耐え忍ぶ…)が絡まり合って、折り合いのつかない状況になっていく。この人間模様を書くこと=純文学作品を作ることが一葉の目的だったのではないかと、私は感じた。

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一葉作品が評価されているポイントのひとつである「詩趣」について。
本作で感じられる「詩趣」の中で私が特に好きなのは、妻から贅沢を咎められたときの源さんの様子を表した以下の表現。

「ころりと横になって胸のあたりをはたはたと打あふぐ、蚊遣の烟にむせばぬまでも思ひにもえて身の暑げなり。」

家族をほったらかし愛人に入れ込んでいる源さんは、妻から小言を言われ、その様子を見ている子どもからも気を遣われている。家長としての体裁は保とうと涼しい顔でごろごろしているが、心の内ではお力を諦めきれない情けなさと家族への責任で、身が燃えるような思いをしている。こんな様子が詩情たっぷりに伝わってくる一文。

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お力の無邪気さと不運な身の上が、本人の意思とは違う方向に彼女たちを連れて行ってしまう様が物悲しい作品だった。

5000円札から樋口一葉がいなくなってしまうまであと2年もない。その間に、ぜひとも一葉作品すべて読破したい。