三四郎_余所の不幸と己の悲劇

他者の苦痛に同情する能力が薄れた現代人。
新聞を開けば多くの事件事故に直面するが、それらは情報であって、悲劇ではない。

三四郎は余所の子どもの葬儀を美しい光景と感じる一方、
美禰子のことになると、彼女には死の悲しみがないにも関わらず、確実に苦悶が存在していると自覚する。

「もし誰か来て、序に美禰子を余処から見ろと注意したら、三四郎は驚ろいたに違いない。
三四郎は美禰子を余処から見る事が出来ない様な眼になっている。
第一余処も余処でないもそんな区別はまるで意識していない。
ただ事実として、他の死に対しては、美しい穏やかな味わいがあると共に、
生きている美禰子に対しては、美しい享楽の底に、一種の苦悶がある。
三四郎はこの苦悶を払おうとして、真直ぐに進んで行く。
進んで行けば苦悶が除れる様に思う。」(226)

この「真直ぐ」とは、自分の感じとるまま、
美禰子への苦悶を解決するために、その苦悶を抱えながら進んで行くということである。
美禰子を「余所から見る」ことは、すなわち美禰子に感情を振り回されることのない状態になる、
恋情から脱却するということだ。
それができない彼は、恋情に素直に従ってただ真直ぐ正直に生活していれば
いつか自然と方が付くだろうというなんとも呑気な考えを持っている。

しかし、世の飲み屋でよく言われるように、タイミングは最重要項目のひとつ。
少しは焦ったほうがいいぞ、三四郎

-----------------------------------------------------------------

夏目漱石(2000) 『三四郎』[第二版] 新潮社